自分に向かい合う

夢の里の奥池

2013年10月13日

はい、どっと・ちゅーにんぐ(=^o^=)やまねこ庵でおます。
リトリートの期間なので「自分に向かい合う」ということをテーマにしています。 自分と向かい合わない方法は、世にいう「気晴らし」です。
今日は、淡々と冬の準備をしていました。冬野菜の種まきをしたり、出雲旅行の下調べ をしたりです。
「仏道をならふといふは自己をならうなり 自己をならふといふは自己を忘するるなり  自己を忘るるといふは万法に証せらるるなり。」 
道元禅師
弘法大師も「如実知自心」(「悟りとは何であるか」というならば、あるがままに自分の心を知る ことである)と説かれています。
自分に向かい合うというのは、私たちの気晴らし志向から言うと困難な作業です。
ひとつは時間をかけること。二つ目には労をいとわないこと。もうひとつは考えることを いとわないこと、と思います。
さて、問題の自己とは?私たちの内面=魂を統括しているが自我・自己と考えられます。
霊学者 高橋巌さんによれば 自我の働き
「自分の中から新しいものを生み出す」
「霊的なものに向かおうとするならば、自分の自我と向き合うこと」
「自分の意識魂を満足させるためには自我を変えるしかない」
「この本(『神秘学概論』』の全体まとめ」
「愛情の力が働いて宇宙が生まれた」
「自我が霊我になるというのは、愛情の力がどこまで育つかということにかかっている」
「(わたしたちの時代は)叡智の時代でなく愛情の力をどこまで育てることができるかという時代」
精神生活が調和しており、社会生活が健全で良き人間であるとしても「自己をならふ」 という態度に貫かれていなければそれは見せかけでも可能、ということかな。 より良き社会環境を目指して努力するとしてもそれが「自分の待遇改善のために社会を利用する」 というなら、単なる気晴らしで生きているということなのでしょう。
「わたしたちには二つの身体があります。ひとつは肉体、もうひとつは社会なのです。」 社会という身体を見失った私たちは、再び自己と向かい合い、愛情の力を育てながら 社会という体を回復してゆかなければならないということかもしれません。


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