魂の休息~メディテーション

エニグマ「why」

2010年2月12日

はい、どっと・こむばんは(=^o^=)やまねこどすよ。
さてさて、今日は瞑想ということについてです。 やまねこ的には、メディテーションは心のフェルマータ(休符)なのだと考えています。 あわただしい日々の生活にゆるやかな魂の休息を与える能動的な行為だと思うのです。
「心の小道にメディテーションの安らぎはいかが? メディテーションは心のゆるやかなフェルマータ・・・。 安らぎの音楽と森の瞑想をしませんか?
わたしたちは、何ゆえに日々の仕事、雑務、労苦をこなしてゆけるのでしょうか。それはまず、生活維持と経済と衣食住の確保であることはまちがいないのですが、そればかりですべて満たされるというものでもありません。愛する家族、仕事のやりがい、健康、休息、趣味、交際、様々な暮らしの潤いなどなど”充実した生活実感”をそれぞれの価値観にしたがって求めるものなのでしょう。
最近、よく取り上げられる”クォリティ・オブ・ライフ”(生活の質的な充実)というのは、ケアを受ける患者さんだけではなく日々を暮らすすべての人が求めてやまないものでもあるのでしょう。
さてさて、そんなクォリティ・オブ・ライフの向上の知恵として『心の美術館を持つ』ということを考えてみました。 何故ならば、アートの持つ美的価値やそこから放射されている美の体験性というものは、美術館の中にとじ込められているべきものではなく、もっと自由に私たちの生活空間の中に生かされていいものだと思うからです。「何か美しいものへの性向」というものは、誰でも備えているものですし、美の体験がわたしたちのより深い人生の理解や喜びにつながっていることは確かなのでしょうから、それを自分のテーマとして取り入れることは可能かな、と思うのです。 勿論、漠然と「心の美術館」とお題目をとなえるていても何も起こらないでしょうね。美を求めて、野山に散策したり、絵を描いたり、写真を撮ったり、様々な美術作品に触れたりしたいと思っています。そして、そういう体験と出来事に触れる中で、自分なりの美の回廊を作った行きたいと考えているのです。」
瞑想とは、心身をリフレッシュするだけではなく、その安らかな空間をあわただしい日常全体に 浸透させることなのではないかな。 先日、友人と話し合っていて「意味ないじゃん。」というキー・ワードに気付きました。 また、「その方が効率いいね。」という言葉もよく聞きます。それほどに現代は意味と効率を求め る時代なのでしょう。 しかし、瞑想はそうした意味と効率の視野と明らかに異なる次元にあります。 あえて言えば、「意味も効率も求めない空白」こそがメディテーションの息づく場所とも言えるの かもしれません。 美は、余白にあり・・・といわれます。 わたしたちもあわただしい暮らしの余白、ゆるやかな時間の中に意味も効率も無駄も利益も何も 求めない魂のフェルマータを大切にしたいものです。 それは、精神生活の音楽的な要素であったり、心の美術館をわたしたちに与えてくれます。

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