悪について考えました

2008年7月2日

今日は、うすぐもりでなんだか、暑くて蒸しましたね。(^o^)/
世の中では、いろいろな事件や犯罪などがひっきりなしに起きていて、なんだかうっとおしくなることも あります。
やっぱり、時代は変わってゆきますが「悪いことをする」人は、常にいるようです。

今日は悪について、考えていました。
太陽がそのまままぶしく降り注いでいれば、まわりも明るく悪いことなんかないと思うのですが、曇りや闇や影は、光がさす以上は、つきものですね。そういう意味では、わたしたちも悪と無縁な人生 を生きるということは、むずかしくて何らかの悪をにないながら生きているというのが、現実なのでしょう。
勿論、法を犯すような犯罪・・という意味ではありませんが、道徳的に言って「悪いこと」を何かの形で抱えて悩んだりしているのでしょう。
キリスト教では、それを「原罪」や「罪」といい、仏教では業」とか「煩悩」と言っていますね。
とはいえ、「オーメン」みたいに生まれたときから「悪魔の申し子」などという人はおらず赤ちゃんのときは、無垢で純真な存在だったはずです。
どうも、成長の過程で少しずつわたしたちは、「悪を知る」ようになるようなのです。うそをついたり、ごまかしたり、ずるくなったり、人を憎んだり、傷つけたり ・・・法は犯していなくても、道徳的に見てどうかな、という「悪」らしきものを自分の中に意識するのは、思春期以降のことでしょうか? 「自我のめざめ」と言われる年頃と重なっているようですね。
人間の自我は、主体性の基本であったり、自己表現のよりどころであったり、愛の根拠であったりします が、一方で「悪を住まわせる場所」のようでもあります。

「アダムとイブは、自らが裸であることを知ってイチジクの葉で下半身を隠した」というのは、「リンゴ を食べて、知恵が芽生えた」せいでもありますが、「悪魔のそそのかしに乗った」ためでもありました。
性的な成熟期に自我が、芽生え、この世の悪を知り、自分の中にも悪や罪があることを意識するようになる思春期は、まるで楽園から出で行くアダムとイブのようですね。(*^o^*)

わたしたちの自我の根底には、もともと悪の働きがあるということ。どんな光にも必ず、影や闇はついて廻るということ。わたしもまた、悪と無縁な存在ではなく、ただ犯罪などを犯さずに生きてこられたのは 良き家庭環境、隣人、社会からの教育のおかげであることなど考えさせられますね。

いつものように公園を散歩していると、猫がいました。
ドラ猫ですが、「悪いねこ」ではありません。猫は、善悪の世界にはいないようです。
やまねこ(=^o^=) でした。

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