ミカエル祭~ルドルフ・シュタイナーを巡って

2008年9月25日

はい、やまねこです。(=^o^=)
いつものように西条市の哲学仲間の友人から、『ライナー・ノート』が送られてきました。こんな内容です。

『 夏の花火
夏の夜空に打ちあがる花火は美しい
命が短いことは人の心を圧縮し、濃密にさせる
花火は多くの職人の手をへて、工場での事故などで、本来の仕事に就く前にその存在を失うこともなく、花火大会の今日この日まで無事にたどり着く。
そして点火。
天まで届けとばかり暗く熱い核は次の瞬間には円形に拡大するビッグバンだ
多彩な色彩は人間の思念像ともなって弾ける
一見暗黒の夜空に、見えない有用無用の渦巻きとなって消え去る
しかし本当に消え失せてしまうのだろうか。そんなはずはない。
遠い未来のほんのささやかな、そして新しく生み出された摂理を介してその一端を担うのだ。
なにかが死にゆく時、世界は美しいと感じる
そして花火は現在のなかで、過去からきた光の中で死に
闇の中で未来へと連なっていくものを確信するがゆえに美しいのです。

抽象性
抽象性のもっとも○注1外側は記号である。
三角錐を底辺から見て正三角形であるとする真理を観察する時、抽象世界に住むこととなる。そしてそのことが一面の真理だと気付くときエーテル界を覗いている。やがて三角錐の全貌が見えてくる。
ここで認識しているのは形態の全容である。形態を成り立たせている力と性質、またその力がどこからやってきてどの地点で発生したかを知るとき、初めて三角錐という現実を知ることができる。
そしてこのことと○注2『言葉の内と外』というときの何と同等かを思いついたり気づいたりしたとき、その人間が表している理念・カルマを少し知ることができる。
そこで個人間で話をするときには、相手が何に、またいかように気付くかということに注意をすることが肝要となってくるのだ。

○注1 抽象作業中に起こること
言語がもつ様々な内容のなかで、ただ一つの表象のみをその
言語と同一視すること。
○注2 言葉の内と外から導き出された観点
ここに全ての真実を知覚し理解できる人物がいるとする。
そこに別の人物が現われ、何かについて語るとする。そうするとその真実を理解できる人物にとって、別の人物の語ることは内容ではなくてこの人物の意識状態を映したものと見えるだろう。』

彼によれば、世界は認識の素材を提供してくれる花火職人にとっての花火なのだと言います。
一度、バラバラに解体され、記号化され、抽象の次元に引き上げられた世界を再度、構築しなおして自分の欲望から解放された時間と空間の中に再現し、具象的な思念像に構成して、彼の言う『増幅器と遠心分離器』にかけて、もう一度、現実を見つめなおすという思考作業は、確かにルドルフ・シュタイナーが言う『能動的思考』なのだと思います。

これは、知的に難解なものではなく、『忍耐』をともなう作業なのでしょうから、高度に知的と言うよりは、花火職人の花火づくりに似ています。
彼が記すように
『花火は現在のなかで、過去からきた光の中で死に
闇の中で未来へと連なっていくものを確信するがゆえに美しいのです。』

それは、あたかもシュタイナーがミカエルの気分について語っていることと奇妙に一致しています。
キリスト教文化圏では、彼岸過ぎの9月29日を『ミカエル祭』と呼び、大天使ミカエルの祝祭日として祝います。
シュタイナーのミカエルの気分について、こんなふうに語りかけられています。

『どんなに美しく、価値あるものも新しいものを用意するために

 死んで行くというのが、ミカエルの季節の気分なのである。

そのようにして空きができた空間に未来的なものが入ってくることができる。

逆に過去の栄光、美しい伝統を頑なに守ろうとする態度の中に人を惑わせる龍が忍び込む。

過去の財宝を捨てることができない者は、ミカエル的な道を行くことは出来ない。』

       (『いま、シュタイナーの民族論をどう読むか?』より)

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