ミカエルの時代

不思議の国のアリス マッド・ハッターのお茶会

2008年10月7日

はい、やまねこ(=^o^=)です。秋祭りの一日でした。
子供神輿を見かけ、夢中で担いだ幼い日々のことを想い出していました。
このところ秋の体調チューニングです。わたしは温度と気圧変化になれるのに少し時間がかかります。
哲学者 池田晶子さんの『考える日々』を読んでいました。
そのなかに注目すべき一節を発見!!

『眼と言う器官に先立って、光が環境要因として必要であるとすれば、われわれの脳という器官に先立って考えるということが必要なはずである。光を通して眼が形成されたように思考する宇宙を通してわれわれの脳は形成されたのである』

ニワトリが先か、タマゴが先かと言う議論よりも、これほど明確な捉え方があるでしょうか。脳とともに壊れてゆく精神、唯脳論が定番となり、人間の主体の座を脳に措定しているのが、現代科学の見方なのですが、これは、人間に精神作用がないといっていることと同じです。
もしかりに脳のみが人間の主体ならば、コンピュータと人間に違いはないということになります。つまり、『内側』というものがなく『情報処理』の統合センターが人間の主体と言うことになるのです。
精神なき人間は、内面という「妄想」を捨てて、何処へ行こうとしているのでしょうか?
科学とは、所詮すべてを静止させて、死んだものとして対象化して、記号化するものなのでしょうか。
脳に先立つもの・・・『思考の宇宙』をわたしたちは『精神』と呼ぼうが『神』と呼ぼうが、脳の活動の素材があったことは確かです。
池田さんの数々の「考える存在としての人間論」を読んでいると深海魚が光の無い海底で、眼という器官を退化させてゆくように、精神の無いデータの集積としての人間観は、人間の退化のシンボルのようにおもえてしかたありません。

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