スピリチュアルと「自然学曼荼羅」

「自然学曼荼羅」 松岡正剛著(工作舎 1980年)

2007年10月15日

メンタル・ヘルスについて少し書いてみましたが、人間は心身ともに健康、バランスが取れていればすべて満足というものでもありません。エイブラハム・マズローの欲求段階説を待つまでもなく、わたしたち日本人は(韓国・中国もですが)古来、「衣食足りて礼節を知る」という言葉でなれ親しんだ人間観です。
生活が成り立ち、健康だとしてもそれだけでは物足りない、やはり社会生活においても認められ、精神的価値を自分なりに実現してゆきたい・・・これをマズローは「自己実現欲求」と呼びました。確かにある程度の生活水準が整って、自らを振り返り、より高い価値と自己実現欲求を持つのが人間であることは、ごく当然な姿のように思われます。
しかし、戦後の日本人は衣食足りない生活から衣食足りる生活へと経済成長を背景に豊かさを実現して来たにも関わらず、むしろ礼節を忘れることのほうが目立ってきました。つまり自己実現欲求が満たされない人が増えているということです。
「近頃の若い者は礼儀がなっとらん」とおじさん的に言っているのではありません。礼節とは、本来魂の調和をもたらす音楽的人間理解を表しているようです。孔子が言う礼楽というのは「音楽」が本来の意味です。つまり、魂の和声(ハーモニー)を失いがちだということでしょうか。これは、社会生活上のアートであると同時に「自己認識」「自己実現」のアートでもあると思うのです。
自己と社会そして宇宙への礼節を松岡正剛氏はかつて「遊星的郷愁」「宇宙的礼節」と呼びました。
それは、かけがえのないこの地球という星の上で生命を営むものたちへの共感・共振が、人間を宇宙の縮図として受容するという「全体性の回復」を訴えるキーワードでした。つまり、何かに成る人間ではなく、「何かで在る人間」への視座が問われていたということでしょうか。
松岡氏はこれを「存在学的」と言い、当時編集長であった雑誌『遊』で、プロブレマティーク(前哨的)なキャンペーンを張りました。バブルへと奔走する日本人への警鐘的なメッセージだったのだと今になって思います。
1980年代の話なのですが、これは今も有効な視点と思います。スピリチュアル・ブームのさなかで多くの人が何かに成りたがっています。何かに成るというのは変身願望の一種と思われますが、「成る」前に「在る」ことに一度視線を落としてみる必要があると思うのです。このブログがスピリチュアルなテーマとともにスローライフをベース考えた理由はここにあります。
「成る」から「在る」へ、そして「在る」から『成る』へと「地球的に考え、日常的な実践を楽しむ」スローリビングなライフ・スタイルが宇宙的礼節・・スピリチュアルな音楽がわたしたちに「豊かさ」を実感させてくれるのではないかと 思っているのですが、いかがでしょうか?
スピリチュアルの草創期の発端となった松岡正剛氏の処女作『自然学曼荼羅』はそんな惑星的郷愁と精神世界の豊かさを今も発信している名著です。

「ノヴァーリスは、語ります。物質が光になろうとする努力、物質が光になろうとする努力物質が光になろうとする努力。三度言ってもまだ足りない」  松岡正剛

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