春爛漫の松山と砥部町「夢の里」

松山お城祭り
夢の里とべ 桜
夢の里とべ 桜
『桜三月散歩道』井上陽水

2010年4月5日

はい、どっと・こむばんは(=^o^=)やまねこでおます。
ゆるやかな春爛漫の日曜日です。 松山まつりも最終日。堀之内公園をいつものように散歩しました。 松山お城祭りで賑わっていました。桜の花の中の松山城は、化粧直しをした雄姿をみせて います。フリマも盛況です。チビッ子たちのラップによるダンス・パフォーマンスはなか なかの見もの。やまねこは、ベンチでゆるゆるとお昼寝をしました。
百年前にヨーロッパを訪れたサモアの酋長ツイアビは、西洋人たちをパパラギと呼び、次の ように語ります。 『時間というのは、ぬれた手の中の蛇のようなものだと思う。しっかりつかもうとすればするほ ど、すべり出てしまう。自分で、かえって遠ざけてしまう。パパラギはいつも、伸ばした手で 時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこのひまさえ与えない。時間はいつでも、 パパラギにくっついていなければならない。何か歌ったりしゃべったりしなければならない。 だが、時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好き だ。パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。それゆえ彼らの野蛮な 風習によって、時間を虐待している。・・・おお、おまえたち、愛する兄弟よ。私たちはまだ 一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに、時を愛してきた。時間を折 り畳もうとも、分解してばらばらにしようとしたこともない。時間が苦しみになったこともなけ れば、悩みになったこともない。私たちの中に、時間がないというものがいたら、前に出る がよい。私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。だれも時間に不満はない。私た ちは今持っている、今じゅうぶんに時間を持っている。これ以上に必要とはしていない。私 たちは知っている。私たちの一生の終わりのときが来るまでには、まだまだじゅうぶんの 時間があることを。そしてそのとき、たとえ私たちが月の出た数を知らなくても、大いなる 心はその意志のまま、私たちを呼び寄せてくださることを。私たちは、哀れな、迷えるパパ ラギを、狂気から救ってやらねばならない。時間を取りもどしてやらねばならない。私たち は、パパラギの小さな丸い時間機械を打ちこわし、彼らに教えてやらねばならない。日の でから日の入りまで、ひとりの人間には使い切れないほどたくさんの時間があることを。 』                   『パパラギ』より
確かに時間は、十分すぎるくらいあります。十分ないのは、お金と心のゆとりなのかもしれない のです。わたしたちは、十分なお金があれば、十分な時間が与えられ、本当に自分がしたいこと に取り組めると考えます。しかし、現実は十分な時間とお金がそろうことはまずありません。 なぜならば、お金と時間は別次元に存在するからです。海の底で鳥を捕まえられないように。 ツイアビによれば・・・・ 「時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好き だ。パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。それゆえ彼らの野蛮な 風習によって、時間を虐待している。」ということなのです。
午後は、松山市から伊予郡砥部町『夢の里とべ』へ。 昨日のイベントの疲れを癒しに寄ってみたのです。 夢の里は、桜ロードと言えるほどに桜の花が咲き誇っていました。
やまねこは、土手にキクイモを植えました。この芋は、イヌリンという成分が多量に含まれ、 糖尿病や循環器系の病気に良いといわれています。 このところ、やまねこはスコップや鍬を手にすることが多く、ハウス・ビルドや敷地整備の仕事 に専念しています。 大地に直接触れる機会がとても多いのですが、そんな体験から、私たちは地球という存在なしには 生きられないことを実感しています。 経済やシステムや人間社会やテクノロジーは、地球あっての生活との思いを深めているのです。 お金と時間、効率と利益、名誉や利得、競争などなど抽象的なものよりも、心地良い労働と疲労感、 ゆるやかな時間、日溜りとともに過ごすことのほうが楽しいのかもしれないと思うことがあります。 そこには、ただ、ただシンプルな暮らししかないのですが、それでも十分な生きる力を与えてくれ ます。 わたしたちは、自分が思うほどには多くのものを必要とはしていないのかもしれませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

*

CAPTCHA