追悼 石手寺

石手寺 仁王門

2021年8月29日

先月、石手寺のご住職、俊生氏(63歳)の当然の訃報を聞きました。
心筋梗塞だったそうです。
俊生氏は夫の故やまねこの従兄弟になります。
私が直接お目にかかることはありませんでしたが、やまねこを通じての身内の付き合いがあり、何度かお話しする機会もありましたので、「もう石手寺にはいらっしゃらないのか」と思うと非常に寂しく思います。
石手寺は故やまねこが叔父である先代住職のもと、20歳の時に出家得度した寺であり、また私がお遍路さんとなった出発の地でもあり、身近に感じているお寺です。
生前やまねこは「おい、俊生!」と言って寺の本坊をよく訪ねていました。
俊生氏は「やまねこ君と僕は東と西の横綱くらいに真逆なんだよ。」と言っていたそうですが、他人だと全く関係を持たなかったであろう2人が血縁ということで終生お付き合いがあったのも石手寺という仏縁も大きく影響しているかもしれません。
51番札所の石手寺の沿革はネットで調べて頂ければすぐに分かりますが、近代ではどうだったか?あまり知られていないと思います。
この機会にやまねこから伝え聞いたことを書いておこうと思います。
石手寺は江戸時代においては多くの弟子を輩出する学問寺として栄えていました。荘園も多く所有していたので、権力を持たぬよう慣習的に世襲禁止になっていたそうです。
明治に入り、廃仏毀釈の影響か没落していきます。
先代住職が石手寺に入ったのは昭和30年代、ほうき1本買えないほどの貧乏寺で、参道ではライ病患者が物乞いしていたそうです。松本清張の「砂の器」にあるように地元を追われたライ病患者が救いを求めて石手寺に集まって来ていたようです。石手寺が日本最古の湯治場である道後温泉のすぐ傍にあることもあるのでしょう。戦後は傷痍軍人が集まってきていたそうです。いずれにせよ、救いを求めた人たちが集まる街の寺だったようです。
社会保障制度が出来ると共に、物乞いの人はいなくなり、高度経済成長、バブル経済と経済成長とともに寺の様子も変わってきます。
地域に親しまれる信者寺として賑わっていきます。
先代住職の時、伊予鉄道とタイアップしてお遍路バスが始まり、札所巡りで県外からも多くのお遍路さんが訪れるようになります。
今は、昭和時代の信者さん達が亡くなり、観光寺になっています。
時代とともに寺の在り方は大きく変わっていきました。
15年前に8月のお施餓鬼に行ったことがあります。
万灯会、屋台、盆踊り、浴衣を着た地元民達がお盆の祭りで賑わっていました。日本の良き風習として懐かしく思い出されます。
昨年よりコロナ禍で自粛のようです。
石手寺の法脈も絶えました。「弟子になろうという者がいない」と生前俊生氏が言っておられました。石手寺のお弟子さんは「俊」という1字をもらいます。やまねこも「俊海」という名です。この名を持つ者もいなくなります。
「仏法」は変わらないものですが、寺というものは時代と共に社会と共に変わっていきます。これからどのように変わっていくのでしょう?
晩年、石手寺で仏師をしていたやまねこの父はやまねこに
「寺の住職にはなるな、仏道から遠ざかる」という遺言を残しました。
やまねこは遺言通り、オカルティストの道を歩みましたが、寺からは離れ、ドームハウスという夢の実現に向けて全力で走りました。
石手寺住職という重責を背負って寺を運営していた俊生氏のご苦労はいかばかりだったのでしょう?
ご冥福をお祈り申し上げます。合掌

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