『泉の不思議』~孤独と勇気について

ドイツ・ロマン派 フリードリッヒ
ドイツ・ロマン派 フリードリッヒ

はい、こんにちは(=^o^=)やまねこです。
孤独について考えています。秋の夕暮れは、そんなイメージが湧きますね。 暮れてゆく夕空を眺めて、ふとシルエットのように過ぎてきた時間を感じて、わたしたちは孤独を 思うのです。
さてさて、孤立感と孤独と言うのは似て非なるものとわたしは思っています。 孤立無援という言葉がありますが、孤立は助けや癒しがない状態で、孤独は深く充実したものと思っ ています。「孤独死」という場合、どちらかというと孤立のニュアンスがあり、「孤独を愛する」と いう場合は、充実したものという感じでしょうか。
現代人は、孤立感にあえぐということが多いような気がします。 『誰もが背中を向けているように感じる、わたしを理解してくれる人がいない』という気分で日々を 過ごしている人は孤立感にあえいでいると言うことができます。 『誰もわたしを理解してくれない』という思いはやがて、『わたしは社会から捨てられている』とい う疎外感につながります。
果たして、そうなのかな?と思うのです。 諸々のストレス、無力感、徒労感にまぎれて日々を過ごしていると人は孤立感を深めます。 誰も助けてくれない、誰もわたしの存在を認めてくれないと思うものです。
しかし、そう思っているのは「わたしだけ」なのだということに気づく必要があるのではない でしょうか?  わたしたちは、自分を捨てられたものと思い込んで、孤立感に陥り、無力感に陥り、徒労感に 悩んでいるような気がします。
本当は、孤立しているのは事実ではないのです。何故ならば、「わたしを思う心」とはわたしととも に居る心なのですから、少なくともわたしは一人ではないのです。
友達が居ない人、家族が居ない人、気持ちが通う人がいないと嘆く人もあるでしょう。 しかし、わたしは、常にわたしともにいることができます。 そして、そのわたしとは一番良くわたしを理解して、助けて、癒す人でもあることに気づくべきかも しれませんね。(=^o^=)
とはいえ、全く他人と没交渉で一人と言うのは孤立していると言えるでしょう。 わたしは、ひとりの人間が明るく希望を持って、ベスト・コンディションですばらしい人生を生きて ゆくには最低3人はわたし以外に必要だと考えています。3人を多いと感じるか少ないと感じるかは それぞれでしょう。
まず、家族や伴侶が一人、そして友人がひとり、仕事仲間などの社会的な仲間が一人で3人です。
この三人は、孤立感、無力感に陥ったときに『勇気』と『希望』と『信じる力』を与えてくれます。 ですから、愛する家族、友、仲間がそれぞれ一人いれば、人間はしあわせな人生を生きることができ るということなのです。
しかし、時として人はこの三人に恵まれないことがあります。 それでも、孤独の影に潜む三人の存在があることを最後の希望として人は自らに望むことができます。 『孤立』という思いを捨てて、『孤独』という豊かな世界に目覚めるときに、『泉の不思議』を人は かいまみるのです。
それは、深い孤独の影を感じる秋にこそふさわしてことかもしれませんね。 やまねこ(=^o^=)でした。

『泉の不思議』

昔、ひとりの少年がいました。
貧しいきこりのひとり子で、
森の孤独の中で育ちました。
両親のほかには
わずかな人しかしりませんでした。
体が弱く、
肌は透けるようでした。
そして、その目は
深い精神の不思議を秘めていました。
少年のまわりには
わずかの人しかいませんでしたが、
友だちにはことかきませんでした。
近くの山々に
太陽が黄金の光をなげかけるとき、
少年のもの思いにふけった目は
霊の黄金を魂のなかに吸い込みました。
少年の心は
朝の太陽のようでした。
けれども、黒い雲が
太陽の輝きをさえぎり、
山々が暗い気分におおわれるとき、
少年の目はくもり
心は悲しみに満ちました。
このように、少年は自分の狭い世界の
精神の動きに夢中でした。
自分の体とおなじく
周囲の世界は親しいものでした。
森の木々や花々も
少年の友だちでした。
花冠やガクや梢から
霊たちが話しかけました。
そのささやきが少年にはわかったのです。
人々に生命がないとおもわれているものと
少年の魂が語りあうとき、
秘密の世界の不思議が
少年に打ち明けられるのでした。
夕暮れ時に愛する息子がいないのに気づいて、
両親が心配することがよくありました。
そんなとき、少年は
岩から泉が湧いていて
水のしずくが石のうえで
こまかく飛び散るところにいました。
月の光が銀色の輝きで
キラキラと輝く色のたわむれが
水のしずくの流れのなかに映るとき、
少年は何時間も
岩の泉のところにすわり込んでいました。
少年が見ていると、水の動きと月の光の
動きのなかに
さまざまな形が霊のようにあらわれてくるのでした。
その形は三人の女の人になりました。
この三人の女の人は、
少年の魂が聞きたいと思っていることを
語ってくれました。
あるなごやかな夏の夜、
少年がこの泉のまえにすわっていると
三人の女の人のひとりが
色とりどりの何千ものしずくの粉を
二番目の女の人に渡しました。
この女はしずくの粉から
銀色に輝く杯を作り、
それを三番目の女の人に渡しました。
これらのことを少年は見たのです。
夜、夢のなかで
少年はそのつづきを見ました。
恐ろしい龍が
この杯を少年から奪ってしまうのです。
この夜ののち、
少年はもう三度だけ泉の不思議を見ました。
そのあとは、月の銀色の光に照らされた
岩の泉に
もの思いにふけってすわっても
三人の女の人たちはやってきませんでした。
三度三百六十週が過ぎ去ったとき、
少年はもう大人になっていて、
両親の家と森を出て
見知らぬ町に引っ越しました。
そこである夜、
彼はつらい仕事に疲れて、
これから先、何があるのだろうかと考えました。
突然、彼は
岩の泉のことを思い出しました。
彼はふたたび水の女たちを見、
今度は、
女たちが話すのを聞くことができました。
一番目の女の人がいいました。
さびしいときは
いつも私のことを考えなさい。
私は人間の魂のまなざしを
エーテルのかなたと星のかなたに誘います。
わたしを感じようとする者に
私は魔法の杯から
いのちの希望ののみものを差し出します。
二番目の女の人がいいました。
人生の勇気がなくなりかけたときは、
私のことを忘れないでいなさい。
私は人間の心の欲求を
魂の奥底と精神の高みに導きます。
私のもとに力を求める者に
私は魔法の木槌で
人生を信じる力を作りあげます。
三番目の女の人の声はこのように聞こえました。
人生の謎の前に立ったとき
お前は精神の目を私に向けなさい。
私は思考の糸を
人生の迷路と魂の深みの中で紡ぎます。
私を信頼する者に、
織物台の椅子の上で
人生の愛の輝きを織るのです。
その夜、夢の中に
そのつづきがあらわれました。
恐ろしい龍が彼をぐるりと取り囲みました。
けれども、
龍はそれ以上近づくことができませんでした。
昔、岩の泉で見、
彼とともに
故郷から見知らぬ土地に引っ越した女の人たちが
龍から守っていてくれるのでした。
     『泉の不思議』
              ルドルフ・シュタイナー
(西川隆範 訳   イザラ書房 より)
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“『泉の不思議』~孤独と勇気について” への2件の返信

  1. ありがたいことに、身内もご近所さんも仲良しなので孤立はしていませんが、孤独ではあります。今日もシュタイナーの「いか超」を読んでいました。もちろん寂しさもありますが、孤独とは自分に向き合う贅沢時間と思うようになりました。仕事や家庭で忙殺してる中、あっけなく亡くなる方もいるし、早くに認知症になって自分が誰かも分からなくなる方もいるわけです。そんなこと考えると、皆に平等に孤独時間が与えられるわけでばないので、ありがたく頂戴することにします。笑

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