希望の種を植えること

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ 

2008年10月14日

はい、こんにちは(=^o^=)友人と会っていた松山市大手町の『華琳』さんという珈琲店に携帯を落っことしてしまい、今日行ってきました。
どうも店の出口に落としたらしく店員さんが、ご親切にも交番に届けてくれて、警察で無事手元に戻ってきました。感謝です。(=^o^=)
人の善意と言うものがありがたく、ホットな気分の一日でした。

ふたたび孤独と希望と言うことについて考えています。
わたしたちは、日常を骨の折れる労苦とともに過ごしています。
仕事は多くは疲れるもので、時として耐え難い不快な出来事や内面が傷つくようなことに出会いながらも日々の務めをこなしています。
日常とは、決して居心地の良いことばかりではないのです。
しかし、ふとした瞬間に日々の労苦や物憂い現実を忘れさせてくれるような明るい出来事に出会うこともあります。
海外からは抑うつ型社会の典型と言われる日本人ですが、わたしはそうは思っていません。
ユングが言う意味での『内向型』の人が多い社会なのだと思うのです。
先日、某ビール会社で『自分を幸福だと思いますか?』というアンケートで、80%近くの人が「とても幸せ」「まあまあ」と答えたという調査結果が出ていました。好ましいことと思います。
とはいえ、8割の人が幸福感を持っている社会とは、わたしにはどうしても思えないのです。
政治不信は、分厚い雲のように垂れ込め、格差もひどいですし、世相は暗いし、不況感は慢性と言うよりも体質化しているといったほうがいいみたいです。
そんな社会の中にあっても『幸福だ』と思う人が80%というのはどういうわけなのでしょうか?
わたしは、それこそがアジアンな内向性から来ていると思っているのです。
以前ベトナムの底抜けな明るさについて書きましたが、日本もまたアジアの片隅で明るい内向性の一端を担っているのかもしれないと思います。
漠然とした人の良さ、善意、内向性、素朴さ、気づかいや礼儀正しさと言うものはアジア以外では見当たらないものです。
自分の権利を主張して、争いや訴訟に勝つことが市民権の一環と見られてきた西洋社会とは少し事情が違うのでしょう。勿論、日本もすでに個人社会ですから、西洋化されてはいますが、アジアンな感性は今も健在と思います。寄り合い所帯、雑居感覚と相互扶助、共生の思想は現在のような『冷たい社会』だからこそ見直されるべきかもしれませんね。
そこには、内なるものの優位こそが、豊かさにつながるというテーマが見え隠れしているような気がしています。

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