ひきこもりと『えひめ若者サポートフォーラム』

2008年9月28日

はい、こんにちは(=^o^=)
ひきこもりのやまねこ(=^o^=)は、愛媛大学に行ってきました。
「えひめ若者サポート・フォーラム」というニート・ひきこもり・発達障害の若者が社会とつながることを考える講演会とシンポジウムに参加するためです。
法政大学の樋口先生の「若者の自立支援と社会的ネットワーク」と題する講演を聞きました。
いろいろと社会学的な観点から、ニートやひきこもりの実情とサポートのあり方を提言する講演で、得るところはあったかな。
しかし、この講演の中でニートの一応の定義は、34歳までなのだそうです。わたしのように年齢的にあてはまらない人がどうしてもでてきます。落ちこぼれの枠からも、落ちこぼれたやまねこは、さて、どうしたものかと考えました。(=^o^=)
『引きこもり・ニート』という枠組みから、脱出しようと考えたのです。
そもそも日本人は、労働至上主義がありますから、働いていないことを罪悪視する傾向があります。
No Education and No Employmentというキーワードには、どこかしら「仕事も学校もいかず、ぶらぶらしやがって」というニュアンスが含まれているのです。
その見方から言うと、絵描きや作家や自由業と言うものはニートということになります。お遍路さんも当然ニートですし、家事手伝いもニートです。
就労意欲がある若者をサポートしたり、ひきこもりの子供達をサポートすることは確かに大切なことですが、わたしたちはまず、労働ということの意味や組織社会に参加できなければ生きてゆけないという強迫観念から自由になる必要があります。つまり、会社人間・学校人間になれない人は落ちこぼれているという思い込みが少し強すぎるように思うのです。
そして、その思い込みが社会を砂漠化させている面があるということです。それはまた、格差や競争社会を肯定し、若者たちが社会に出てゆくことの阻害になっていることも背景にあるのではないでしょうか。
まず、ひきこもりの問題を考える時、わたしは、「孤独」ということを考えます。
わたしは人間にとって孤独は、生きてゆく出発点であり、自己と向かい合うチャンスと思っていますからひきこもりを否定的側面からのみとらえるのは、いかがかなと思うのです。
オタクといい、ニートといい、ひきこもりといい、孤立して助けが必要な状態ばかりではないでしょう。
人生の創造的なポイントとして、ひきこもり、ひらきなおり、自分の生き方を確立してゆくプロセスの最中にあるのかもしれません。
就労支援のような社会化トレーニングの必要性とともに孤独と言う個性化トレーニングもまた人間にとっては大切な営みのような気がしました。
やまねこ(=^o^=)でした。

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