霊学への道~シュタイナーとの出会い 1

2008年4月21日

シュタイナーと言えば、多くの人にとってはまず、シュタイナー教育ということでしょうが わたしの場合は、まず、神秘学者としてのルドルフ・シュタイナーと言うことになります。
このあたりが、シュタイナー愛好者の傾向を二分する原因となっています。
シュタイナー教育として、はじめて触れた人から見ると神秘学者としてのシュタイナーはあらかじめ、ブラインドが掛けられている形になりますよね。(^o^)/
フォルメンやオイリュトミー、エポック授業など実践面、幼児教育・・・とりわけ母親の立場で シュタイナー教育に触れるとシュタイナーの思想とは切り離した形でも充分説得力のある教育法として活用できるようです。
それは、個人的には決してまずいことではないのですが、背景にある人智学という壮大な体系が、一教育法の実践体系として受け取られ、その側面のみが広範囲に浸透するという現象も生むことになり勝ちです。
モンティッソーリなどのように背景の思想の関与なく、教育法が広がると言う傾向はほかにも見られますが、シュタイナーに関しては、その乖離がもっぱら「神秘学」というバックボーンによるのではないかと思っています。
シュタイナー教育の親しみやすさと比べ、人智学がすんなりと理解がすすむものではないという事情は、科学的・合理的な思考になれたわたしたちにとって、霊学というまったく新しい世界観が背景にあるためではないでしょうか。
確かに人智学は、いざ取り組んでみると理解するのが、単純、簡単な 思想ではありません。
通常の教育学や自然科学のように体系的な知識 の集積と言うものではなく、それらと全く異なった立場にあることが おぼろげながら、見えてくるようです。 しかし、わたしたちはいわば「ダイジェスト知 識」の消化、回答を 得て納得したがる傾向からは、とうてい思い及ばない領域に神秘学 としての人智学 の世界が広がっていることにに気づきます。

確かに霊学(精神科学)と言われるものは、シュタイナー教育にとって も、他の社会実践にとっても根幹を成していることが、少しずつ わかってくるのです。
それをたとえば、スピリチュアルなお告げのように 受け取り、納得することも、また体系知識として整理することも できず、自分の中で保持し、暖め、培うことが求められていることに 思い至ります。ここまで来るとシュタイナー教育も人智学もやっかい なシロモノと思う人がいても、驚くにはあたらないのでしょう。

霊学は、わたしたちが科学と呼ぶものと芸術と呼ぶものの間にかけられた橋のような世界観ともいえるとわれます。

芸術家礼賛

高貴な人間が何百年にもわたって

自らに等しいものに働きかける。

善き人間がめざすものは、

人生と言う狭い空間の中では到達できない。

それゆえ人間は死ののちも生きて

生きていたときと同じように働く。

善き行い、美しい言葉を求めて、

死ぬほど努力したように、今や死ぬことなく努力する。

芸術家よ、君は限りない時を貫いて生きる。

不死を楽しむがよい。


         ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

シュタイナーは「新しい美学の父 ゲーテ」の中で次のように語っています。

『この詩は、芸術家の宇宙的な使命についてゲーテの考えをみごとに表現しています。一体誰がゲーテのように芸術を深くとらえ、このような気品を与えることができたでしょうか。』
そして『美とは、感覚的・現実的な外観の中に現れた神的なものではありません。美とは神的な外観をまとった感覚的・現実的なものなのです。 芸術家は神的なものを世界の中に流し込むのではありません。 世界を神的なものに高めることによって、神的なものを地上にもたらすのです』


シュタイナーは、芸術論と自然学においてはゲーテの後継者を自認していました。
人智学の運動本部をゲーテアヌムと名づけ、ここではオイリュトミー、神秘劇とともにゲーテの戯曲の上演が催されます。ゲーテの思想はシュタイナーの若き日の思想的な原点でもありました。ゲーテ自然科学論文集の編纂がシュタイナーのアカデミズムの世界に登場 するきっかけともなっています。


       『シュタイナーとの出会い』  1978

さて、わたしのシュタイナーとの出会いは1978年のことですから、そろそろ丸30年になります。
基本的な著作である『神智学』と『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』を読んだことがきっかけでした。
以来、「いかにして超感覚」を通して、シュタイナーと出会い、この書はわたしにとっての魂の試金石のようなものになりました。
当時わたしは受験生で、受験勉強のかたわら今で、言う「スピリチュアル」にはまっていました。
パタンジャリーの「ヨーガ・スートラ」やバガバット・ギーター、仏典などに読みふけり、瞑想ばかりしていました。そんな暗い青年期のわたしにほのかな『希望』を与えてくれたのが、シュタイナーの「いかにして、超感覚的世界の認識を獲得するか」でした。
暗く、陰鬱な受験期の悩めるわたしにとって、シュタイナーの言葉が岩に染み入る 水のように思われたのです。
本書は霊的世界の認識・・行法書ではあるのですが一面、現実生活の良き指針のようにも思われました。
前書きの中でシュタイナーは次のように語っています。

「ひとつの行は勿論正しく理解されてこそ、正しく実践されることができる。
しかし、その場合にもその行は魂の調和のためにその一面性を代償しうるような 別の行が修行者自身の手で付け加えられるのでなければ、悪しき作用を及ぼすことになるかもしれない。」
(第3版前書き)

これは、わたしたちが霊的なものに関わる時の厳格な注意を語っているように思われます。
神秘学や宗教の持つ求心力に巻き込まれないよう、しっかりと自分の現実感覚を健全化に向けて培う・・ ということではないかと思います。
物質世界は、わたしたちの魂のあり方を自然に修正・調和してくれますが、メンタルな世界、スピリチュアルな世界は容易に幻想が混入しやすいということなのでしょう
まず、「何よりも忍耐することを特別に学ばなくてはならない。今日か明日までに成果が現れることを望むといった焦りは抑制されなくてはならない。」とシュタイナーは語ります。
「幻想と霊的現実を混同しないことが決定的に重要になるのである」そして、
「冷たくさめているのではないにしても、どんなときにも明るい知性を持ち続けなければならない」と本書では繰り返し述べられています。
霊学は、ハウ・ツー・ブックスやお気軽なスピリチュアルのように一筋縄ではいかないものなのでしょうか。霊学に出会ったものにとっては、奥深い森の入り口に立たされたような戸惑いを感じるというのが正直なところかもしれません。

『シュタイナーの治療教育』高橋巌著(角川選書)より
シュタイナーの霊学

 まず、「霊学」という言葉にふれておきますと、この言葉は、一般の哲学辞書などを引いても、出てこないことが多いと思います。ドイツ語の元の言葉は精神科学とも訳せます。「精神科学」は、ヘーゲル以降、ドイツのアカデミズムの中に登録されている重要な概念になっていまして、…ドイツの代表的な教育学者であり哲学者であった人たちは…精神科学の立場に立っている学者です。
精神科学は、自然科学に対立する概念です。
精神科学は個別的な価値を提示する学問であると…歴史の上では1回しか起こらない出来事の意味を、価値という観点から解釈しようとするのが精神科学です。

自然科学は物理化学から心理学まで、自然科学に固有な方法と観点をもってさまざまの対象を取り上げます。…その基礎には数学があります。できるだけ数量的な原理に還元して説明できればできるほど、科学的であると考えられています。

 …それに対して精神科学、歴史学、哲学、心理学、社会学、宗教学、美学などは、自然科学の方法では対応できない真、善、美の価値の世界を独自の方法で研究しようとします。その場合の方法は、数学的な方法はとれないので、多層的な構造を分析したり、歴史的な発展過程を辿ったりしながら、対象の意味を明らかにしようとする解釈学的な方法をとるのです…。

 …霊学はどういう観点に立つのかというと、自然界と人間界の両方を取り上げ、その両方の世界の中に等しく存在する「眼に見えぬ世界」を研究しようとします。そしてそのために物質界、生命界それから叡智界という三つの世界を自然の中にも人間の中にも認め、そしてそれらの全体的関連を問題にするのです。

 そもそも物質界と生命界とにはどういう関連があるのでしょうか。生命界と叡智界といわれている世界とにはどういう関連があるのでしょうか。これらの関連は従来の自然科学的な方法でも、解釈学的な方法でも捉えることができませんでした。そこで第三の方法として霊学の方法が問題になってくるのですが、シュタイナーはこの霊学のことを人智学とも呼んでいます。

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ


にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

*

CAPTCHA