スピリチュアルからリアリティへ

2008年4月9日

『理想的であれば、現実的ではない。また、現実的であれば理想的ではない』とわたしたちは、考えがちです。
「そんな理想論言ってもね・・現実は、厳しいよ。」とため息をつくようなことは、とても多いのです。
わたしたちの願いを込めた”理想”は、常に現実という試金石にかけられ、大方は鍍金がはがれて鉄か鉛のように重々しい現実のしっぺがえしを食うものなのでしょう。
「あの人は理想肌だね。」という言葉の意味することは、「夢見がちでふわふわした人」という半ばアイロニカルなトーンを帯びた表現ということになります。
果たして、「理想」とは「夢みたいな非現実的」なものなのでしょうか?
そもそも「理想」とは何でしょうか? そして「現実」とは?
いったい誰が、この二つを別物で対立するものということに無批判に受け入れるよう教えたのでしょうか。これは、古くて新しいテーマのような気がします。
「ニワトリが先か?タマゴが先か?」と問うのにも似ています。
「あること」と「あるべきこと」の対立、ずれ、錯誤、離反をわたしたちはあらゆる場所に見出します。

多くは、あるべきでないあることに出会ってしまうのです。
わたしは、もっとお金持ちに生まれるべきであった。
わたしは、もっと才能ある人になるべきだった。
わたしは、もっと健康に生まれるべきだった。
わたしは、もっと幸せな家庭にうまれるべきだった。
こうした考えは、そうでない現実を感じていなければ、出ない言葉ですよね。

理想どおりではない現実・・・しかし、現実はただ現実的で理想なんか配慮してくれないんだとわたしたちは、日々思い知らされるのです。

しかし、これは心のトリックではないでしょうか?

もし、今ある現実が理想的なものならば・・・・

もし、今ある自分が受け入れやすいものであるならば・・・・


『人生における事実とは、人生の最大の教師である。』とは、ルドルフ・シュタイナーの言葉です。

理想とは何でしょうか?

そして、「わたし」とは?

現実のかなたの理想は、目標値としては有効だと思います。しかし、それだけでは、現実と理想のジレンマに陥ってしまうのでしょう。

ルドルフ・シュタイナーは、適切にも現実の中に見出される『生命力に満たされた理想の力』について語りました。理念と理想は、種と花の関係に似て私たちの魂のあり方次第だというのです。
それをシュタイナーは、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という著書の冒頭で美しく表現しています。

『いかなる理念も理想たりえぬ限りは、魂の力を殺す。
 しかし、いかなる理念も理想たりうる限りは、すべてあなたの中に生命力を生み出す。』

 

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