神秘と直感~やまねこ的ゆる・ライフ

2008年12月15日

はい、どっと・こむばんは(=^o^=)ミッド・ナイト・ワイルド・キャットです。やまねこは、神秘学30年生になりました。
ともかく何であれ、神秘学に30年間関わってきたということになります。
昨今のスピリチュアル・ブームで、少し浮上した神秘学ではありますが、公開されているものはすべて蓋然的な知識と言う側面もありますから少し注意とライナー・ノーツを書いておきますね。(^o^)/

○現実と呼ぶものが、神秘の出発点であり、到達点であるということ。
○日常は、真昼の光だけではなく、夜もあるということ。
○神秘は、わたしという謎に尽きるということ。
○知識・技芸・経験・社交の道を通って直感を磨くことが最も近道です。

巷間、話題のスピリチュアル本の多くは、外側にあるものとして一度断念して、身近なことを最大の課題とする心のゆとりがない間は、神秘の道は閉ざされ続けます。知りうる知識は、すべて空しいものとあきらめないと様々な悪しき誘惑に囚われることになります。
すべては、なんらかに意味で「奉仕」でなければ、神秘の門は、破滅の門にも通じています。
もっとも身近な現実感を、霊性への道となす者にだけ、少しだけ光を垣間見せてくれます。
あとは、膨大な経験則に耐えうる直感を磨くことです。

それは、刀鍛冶や焼き物師と同じ道であると知るべきでしょう。神秘学は安直な理解と言うものはなく、またそれ自体は何の利益ももたらさないものなのです。
「奉仕」のための神秘学が、個人的な欲望にのみ使えるとしたら、確実に暗黒の世界を招くことになります。最も大きな欲望は、権力と支配欲ですからこれに神秘を仕えさせることは、避けられなければなりません。
この世的な幸せはこの世的なことで満たされるのがよいのです。
そういう意味では、神秘をまず、日常のひとつひとつの現実の中にこそ見出す努力が必要なのです。
理由は、「私・今・ここ」から離れては、直感は妄想に陥る危険をはらむからです。
多くのスピリチュアル本は、日常を軽視したり、退屈に見過ごした人々によって書かれて読まれていることは、注目すべきでしょう。
ごく普通に生きること以上の価値はないとあきらめることが出来るときに神秘の門は開かれます。
多くの先人たちが通った大いなる神秘の道とは、ゆったりと日常に勤しみ、楽しみ、静かな魂の空間を確保することから始まっていることに最大の敬意を払うべきかもしれません。これは、わたしの私見ではなく、多くの神秘家が口をそろえて語る基本的な理解なのです。
やまねこ(=^o^=)でした。

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“神秘と直感~やまねこ的ゆる・ライフ” への2件の返信

  1. >なんらかの意味で「奉仕」でなければ、神秘の門は、破滅の門にも通じている

    全くその通りですね。オカルトを自分の欲のために使うと必ず悪魔的な者と出会います。
    僕も何度か危ない目に会いましたよ。笑

  2. 仏教でも利他業ってありますね。
    私も仕事とはいえ、老・病で壊れていく人たちの世話をするのに疲れてきていました。高齢者施設とはあの世へいくためのプラットフォームのようなもので・・・。ある意味、奉仕の気持ちないとできないところもあります。しかし、大きな学びになっていることも事実。
    もう1度初心に戻り、仕切り直しします。

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