内なる空間~インナー・ライフ

2008年5月3日

「内なるもの」と「外なるもの」について考えています。(*^o^*)
わたしたちにとって内とは何なのか?そして、外とは何なのか?
「これは内々のこととしてとどめておく」とか「外で言えることと内輪の話」などと言います。
この場合はプライバシーに属することが、内々のことなのでしょう。
しかし、一方で「襟を正して、堂々と」とか「胸を張って」などという時は、外での表現・表明のようです。わたしたちが、履歴書に書いていることは、ほぼ外なる私であって、家族や親友や趣味や内面生活は「内なること」とされるのでしょう。
どこで生れ、家族構成や学校、職歴などは外。愛情関係や文学的とでも言えるような、個人性は内と無意識にわけているようです。
ふたつの流れ・・・・外と内が重なるところに「個人」があるようなのです。履歴書的な外なる私・・・それは、市民生活をしている個人として戸籍上に登録され、説明可能なわたしとでも言えるでしょう。
もうひとつは、精神生活上のわたし、内なるものとしてのわたしは、登録できない「内なるわたし」であって、外から説明困難な個人とでもいえるでしょうか?
説明困難で、あいまいで、漠然としているかもしれませんが、わたしたちは主体をこの「内なるわたし」に置いていることは確かです。
外なるものとは、社会生活をしている私なのですが、内なるものと無関係であったり、ギャップがあるとわたしたちの魂は、苦しみます。
それは、わたしたちが機械にはない何者かを備えた存在であり、動物にはない何かを携えた存在だからです。
しかし、現代は「内なるわたし」よりも「文書化され、記録され、説明される外なるわたし」の方が重要視される社会です。内面の声は、外なるものに抑圧され、表現の場を持ちにくくなっているような気がします。
現代は、市民社会ですから当然なことなのかもしれませんが、個人が市民一般としてのみ扱われ、均質な平等社会であればあるほど内面生活の貧困を感じるというのもまた、人間の姿なのかもしれませんね。

個人→市民→地域社会→国家→国際社会という外なる流れと
個人→家族→血族→民族→地球という内なる流れの間で、わたしたちは大地・地球とのつながりを基本としてもう一度「わたしを問うこと」を必要としているのではないかと思っています。(^o^)/

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