サイキック・ディフェンス5  霊性に向かうこと

2008年4月14日

サイキック・ディフェンスというテーマで、書いてきましたがこれは、メンタル・ヘルスということとほぼ同じ意味であることは、確かでしょう。ただ、あえてメンタル・ヘルスというタイトルにしなかったのは、『内と外』という問題にこだわったためです。

メンタル・ヘルスとして書いたことは、ほぼ外的な意味での内的な問題についてであり、今回サイキックディフェンスということで書いたのは、内的な意味での外的な問題についてということになります。

ややこしい言い方ではありますが、何をもって内的といい、何を持って外的というかが、鍵なのでしょう。わたしの基準で言えば、前者は心理学的な観点、後者は霊学的な観点からということになります。

内と外との境域が、私たちの内面にはそれぞれあるということを、考えてみる必要を感じます。

オフィシャル=外的 プライベート=内的

形式的=外的    意味的=内的

身体=外的     心=内的

会社=外的     家庭=内的

履歴書=外的    私小説=内的

などなど、わたしたちは内的なものに主体を置きながら、外的な生活を形作ろうとしているように 思われます。愛、感情、価値観、人生観などは、ほぼ内的な領域に広がり、計算・利害・形式・システム取引・法律・経済・政治などは、ほぼ外的な領域に広がっています。

外的なものは、器。内的なものは、器に盛られた水のようなものとも言えるでしょう。
器のないところに、水はかたちをとることはできませんし、空っぽの器は、器としての用をなして いません。形式を生み出すとは、器をなすことであり、また内容に従った器となってはじめて”外的なるものが、その内的な意味を獲得する”ことができます。

わたしたちの、内面生活は、ライフ・スタイルなしに成立しないということと、ライフ・スタイルの確立なくして、精神生活の安定は望めないということの例えとして考えることもできます。
いずれにしても、内的なるものは、外的なものの支えを必要とすることは確かなようです。

サイキック・ディフェンスという場合は、内的なものが内的な世界のみによって支えられるのではなく必ずその外的な形式を必要とするという点にウェイトがあります。

メンタル・ヘルスという場合は、外的なものが常に内的な裏づけを持っていること・・・外的なものの(つまりは生活・ライフ・スタイル)の内的な意味の獲得にウェイトがあります。
これは、同じことのコインの両面なので、区別する必要はないのかもしれません。

衣食足りて、礼節を知る・・・ということは、真理ではあっても、衣食足りた者すべてが、礼節を知っているわけではないく、衣食足りない礼節の人もあるということなのでしょう。

社会生活にも内外があるということ。

精神生活にも内外があるということ。

社会生活においては、内なるものを主体として、精神生活においては、外なるものを主体として営めたら、人は幸福ということなのでしょう。

精神生活の外なるものとは、客観的精神性(普遍性・霊性・人間性・神性など)、道徳性を意味することはいうまでもありません。

わたしたちはこの「宇宙的礼節」のもとに社会生活を営むときに幸福な者として生きるのだと思っています。(*^o^*)

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