断・捨・離2

2013年9月14日

はい、どっと・こむばんは(=^o^=)やまねこ庵でございます。
出家の兄と「断・捨・離」について話し合っていました。無駄なモノと決別する ということはとりもなおさず「この身ひとつ」になるということです。
「本当にモノを減らしたいのか。なぜ減らすのか。 まず、そもそもなぜモノを減らす必要があるのかを考えてみましょう。 私がモノを減らすことに決めた理由はいくつかあります。 私がモノを減らすことに決めた最大の理由は、モノは一時的な幸せしかもたらさない、ということに気づいたからです。新しいiPhoneでも洋服でも何でも、それを購入することで得られる満足感や効用はその瞬間がピークで、あとは下がっていくのみです。モノに固執した人生を送っても本当の幸せは得られないと考えます。
そして極めつけは、私達がどんなにいいモノを沢山揃えたとしても、それを何一つとして墓場には持っていけないということです。それよりも、友達との思い出や自分の経験などに投資した方が価値あると私は思っています。」(『ノマド・ライフ』)
弘法大師の言う「即身」というのも「この身このままで仏」という意味です。 あらゆる社会的・物質的粉飾は無用なのかもしれませんね。
要らないものは捨離してゆく、何物にも依存しない、もたれかからないでいると人はどうなるのか? 「
退屈になる」「不安になる」「焦る」「いらいらする」「気分が沈む」・・・etc それで? 退屈やら、不安やらは「断」における不安定な心ということでしょう。
そして「捨」において「決別」が起き、「離」において風が吹くように消え去る。
do more with lessとは、「より少ないものでより多くをなす」という バックミンスター・フラー博士の言葉です。 無駄なモノ、無用なモノを捨てて、より高いクォリティと有効性を得ることを博士は 「エフェメラリゼーション」と呼びました。短命化とも言い換えられています。 この短命化こそはわたしたちの東洋的知に通じるものがあります。
陽明学の格物致知などにも照応しているようです。 「万物はすべて一木一草にいたるまで、それぞれ理をそなえている。
この理を一つ一つ窮めてゆけば、 ある時、豁然として万物の表裏精粗を明らかにする事ができる。」 といっている。
つまり、「格物」の格とは至るということ、「格物」 は「物に至る」ということで、万物にそなわる理を窮める「窮理」と同 じ意味の語だとし、物に格り理を窮めることから知識を推し進めて「知 を致す」こと、これが「格物致知」ということだと説いたのである 。
得たものは有効に用いて自然に戻すということ。より少ないモノとは本質を極める ということ。自然は戻されることによってふたたび蘇ります。 私たちも断・捨・離してふたたび自分らしさをとりもどせるかもしれません。


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