暮らしのデザイン・サイエンス

『アジアン・ドリーム・ソング』久石譲

2013年5月27日

はい、どっと・もーにんぐ(=^o^=)やまねこ堂でございます。
ライフ・デザインについて考えていました。わたしたちの生活感というのは、つまる ところ、「感性と頭」に関わっていると思います。
春ごろ、町並み保存で知られるある町を友人と散策していました。
ふと、ある江戸時代起源の宗教施設の前を通りかかりました。 その時、友人がやまねこに問いかけました。
「やまねこどん、この宗教に入るとどうなるんですかね。」
やまねこは即座に答えました。
「この宗教はね、教祖が病気回復と同時に神がかりになったので、まず病気が治るんですよ。次に貧乏という病気が治ります。現代医学的にみても貧乏という病気が一番やっかいなの。そして、最後に頭が治るんですよ。」
それほどに江戸時代以来、身体的病気と貧乏と心の病は多くの人の悩みだったということなの でしょう。
やまねこは、生まれつきのシュールレアリストなので暮らしとは、あたま的なものと考えて います。 現代では、年収で生活を計ったり、趣味性で計ったり、可処分所得で計ったりしますが、 必ずしもそうは言えないと思うのです。ある人は金銭が十分あれば家庭崩壊や暴力など人生の 破壊活動を始めますし、ある人は貧困な人と同じ質素な生活を始めます。
日本人は、西洋人と少し違うなと思うのです。わたしたちには古拙な感性が今も生きています。
「西洋人は日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる。」
「われわれは生活の中の美を破壊することですべてを破壊する。誰か大魔術師が社会の幹から堂々とした琴をつくる必要がある。」
「花は星の涙滴である。つまり花は得心であって、世界観なのである。」
「宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。」
岡倉天心が『茶の本』の中でこんな風に語りかけていますが、私たちは果たして進歩したのだろうか と疑問に思います。
生活に追われるうちに本当の豊かさを忘れているのではないかな。
陰翳礼讃の美学と暮らしのクオリアのソフィスティケートを求めてゆきたいと思っています。 暮らしをあたま的に考えるとは、美的直観と全体知を最大限に働かせて、暮らしのクォリティを 高め洗練してゆくことではないかな、と思っています。

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