陰翳礼讃

2013年7月12日

はい、どっと・あふたぬーん(=^o^=)やまねこ単体でおます。
猛暑が続きますね。みなさま、熱中症にお気をつけくださいましまし。
やまねこという現象はあらゆる透明な幽霊の複合体ではありますが、とりあえず単体で 過ごしています。
浄瑠璃町の『衛門三郎の里』で金持ちけんかせずおじさんと話していました。 彼は、ドームハウスの現代アート・ミュージアムを企画しています。
現代アートを巡って四方山話をしていました。 長年の山頭火研究の大家ですが、ふと「陰翳礼讃の哲学」の持ち主かなと思いました。
風狂と和楽と現代アートをつなぐ陰翳礼讃の哲学とは、彼自身の生き方に通底している のではないかと思いました。
文豪 谷崎潤一郎は名著『陰翳礼讃』の中でこんなふうに語りかけます。
「だが、いったいこう云う風に暗がりの中に美を求める傾向が、東洋人にのみ強いのは何故であろうか。西洋にも電気や瓦斯(ガス)や石油のなかった時代があったのであろうが、寡聞な私は、彼等に蔭を喜ぶ性癖があることを知らない。昔から日本のお化けは脚がないが、西洋のお化けは脚がある代りに全身が透きとおっていると云う。そんな些細な一事でも分るように、われわれの空想には常に漆黒の闇があるが、彼等は幽霊をさえガラスのように明るくする。その他日用のあらゆる工藝品において、われわれの好む色が闇の堆積したものなら、彼等の好むのは太陽光線の重なり合った色である。銀器や銅器でも、われらは錆の生ずるのを愛するが、彼等はそう云うものを不潔であり非衛生的であるとして、ピカピカに研き立てる。部屋の中もなるべく隈を作らないように、天井や周囲の壁を白っぽくする。庭を造るにも我等が木深い植え込みを設ければ、彼等は平らな芝生をひろげる。かくの如き嗜好の相違は何に依って生じたのであろうか。案ずるにわれわれ東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自(おのずか)らなる美を発見する。」
墨絵のようなくすんだ風景・陰翳の中に美を発見する日本的感性は、確かにアヴァンギャルド ではあります。
調和と均整、破壊と再建、闇と光の分離・・といった西洋的な感性は行き詰まり、日本的な美と 直観に魅惑される時代です。西洋文化にあこがれた日本人は遠い過去の遺物なのでしょう。 シュールでオブジェクティブ、アヴァンギャルドな陰翳礼讃の美学が求められているのかもしれ ませんね。帰り道で立ち寄った水田の中の村の鎮守が斬新に思われました。

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