わたしという人間とつきあうとは?

2013年3月28日

はい、どっと・こむばんは(=^o^=)やまねこばみゅぱみゅでございまし。
意味がわかりませんね。まあ、いいか。 今日は、来客を迎えながら「自分について」考えていました。
「わたしとは、誰なのか?」という問いです。
というのは、夢に僧侶が出てきて「煩悩と執着そのもの」の姿を見せてくれたからです。
ある僧侶は、寺院経営と金銭への空くことのない執着を語りました。もう一人の僧侶は あくことのない女性への執着と家庭崩壊を語りました。
目覚めて起き抜けに「これって仏教なの?」という疑問が目覚ましベルのように思われました。
人はそれぞれにこだわりというものがあります。 それぞれの信条に従って生きる自由というものがあるということです。
しかし、こだわりも時として執着であり、『私の道』を阻むものとなり得ます。
「わたしは自分のために生きている」も「わたしは周りの人のために生きている」も いずれも「わたしとは誰なのか?」という問いをごまかす手法なのかもしれませんね。
日常のあれやこれやで適当に先送りされている「究極の問い」とは・・・。
『なぜ私はここにいるのか』ということなのでしょう。
目覚めていつものように家内と般若心経を勤行しました。
「厭離一切顛倒夢想」 夢から覚めて夢の日常へ。
わたしは自分のために生きているというのは、一応事実だとしても 私が出会う現象・・・わたしが出会う出来事、人、世界はわたしなしにはあり得ないのです。

※禅とアラン・ワッツ
アラン・ワッツさん(Alan Watts)は、1915年イギリス生まれの哲学者、作家、牧師で、1938年にアメリカに移住して西海岸で生涯を過ごしたかた。1973年に亡くなりました。
西欧に初めて東洋哲学・思想を伝えたことで特に有名な学者ですが、特に仏教、禅に傾倒した著作が多いのが特徴で、日本でも「タブーの書」「心理療法東と西ー道の遊び」などの邦訳が出版されています。(いずれも絶版)
20世紀初頭、釈宗演・鈴木大拙が欧米で禅を紹介。知識人を中心に反響を得、行き詰まりを感じていた心理療法界に東洋思想を導入する動きが見られるようになった。
ユングは鈴木の著作に序文を寄せ、フロイト派のエーリッヒ・フロムは、鈴木と共に国際会議を開いて1959年に『禅と精神分析』を刊行、その翌年にアラン・ワッツが『心理療法東と西』を刊行し、当領域の基礎的著作として位置づけられた。ワッツは21歳の時、鈴木大拙に出会っている。


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