2008年9月19日
はい、こんにちは(=^o^=)やまねこです。
今日は、メンタル・ヘルスについて考えています。台風が来ているので、外に出るのはあきらめたんですよ。(^o^;)
『放下』という言葉をご存知でしょうか? 自分の中にあるこだわりやとらわれを「ゆるりと手放す」というイメージでしょうか。
『放下』(ほうか)・・・放下(ほうか)とは、キリスト教神秘主義、とくにドイツ神秘主義で用いられる概念である。ドイツ語では Gelassenheit. 我性を捨ててイエス・キリストにすべてを委ね死にきり、己を無となし、そのことによってキリストの受難と復活に与り、真によく生きることをいう。マイスター・エックハルトにおける中心概念であり、ヤーコプ・ベーメらに継承される。(ウィキペデイアより)
禅の思想家であった鈴木大拙もしきりとこの言葉を使いました。
『「寝て、起きて、食べ」ることが、平生底なのではない。それだけならば単なる日常である。大拙は「寝て、起きて、食べて、死ぬ」と言う。「寝て、起きて、食べて」、そして「死ぬときには死ぬ」。そのように生きる。生きているときに既に死んでいて、すなわち「我」を手放し放下して、「我」による囚われから開放されて自由に静かに、「寝て、起きて、食べて」、一挙手一投足なにをしても、なにをしなくても、そこには、「我なき」風貌がただよい、「我なき我」の相貌が表われる。
禅文化研究所『鈴木大拙写真集』より
わたしたちは、日々寝て、起きて、食べて・・を繰り返しています。しかしそこには、様々なとらわれや執着やこだわりがあって、悩みや争いや不安にさいなまれます。
『放下』とは、こういう煩悩のとらわれから、自由になるひとつの知恵のあり方なのでしょう。
すべてをゆだねるということ、「わたし」というとらわれをゆるりと手放す・・ということなのでしょう。
それは、ある意味で自分を他人と等しく平等な眼で見るということなのかもしれません。
わたしが為したこと、実績などへのとらわれ、また「わたしとあなたとどちかが優れているか」といった相対的な見方、過去の出来事や感情への愛着、自己を主張して他を押しのける執着・・といった煩悩は所詮、時間と死によって全くの無に帰します。
先日ある人と話していて、興味深いことに気づきました。
『見通しだけはいつも明るく持ちたいもんだね。目先が何であれ、見通し明るく持ってればきっといいことがあるよ。』と語りかけると友人はこう答えました。
『そうよね。死ぬまでそんな態度でいられたら、その人は明るい人生を生きたということになるわね。』
この友人の言葉に何かしら、『放下』という言葉を理解するヒントのようなものを感じました。
やまねこは、ゆるりと手放し 秋の風
やまねこ(=^o^=)でした。