ゆる系のスピリチュアル 1

2008年6月11日

スピリチュアル・ブームが落ち着いて、テレビでもこういうテーマの番組は減ってきました。
「オーラの泉」は、時々あるようですが、リバイバルなイメージですね。(^o^)/
スピリチュアル番組の減少と平行して、エコロジーやオーガニックなテーマの番組が増えています。
グルメ番組などでもしきりと有機野菜が出てきますね。
わたしは、このブログを始めた当初から、この二つのブームは双子の関係にあると思っています。
つまり、ゆる・ライフを考えたときに「心の問題」と「ライフ・スタイル」は、分かちがたく結びついているということなのでしょう。
スピリチュアル・コンベンションなどのイベントに何度か、参加してみて正直な感想なのですが、スピリチュアルにはまっている人たちの多くが「奇妙な焦り」を抱えていることを知りました。
決して、スローではないのです。何故か、いつも焦っていてあれからこれへと興味が移りがちな人たちをよく見かけます。心の安定が失われているからこそ、癒しを求めてスピリチュアルに関心を持つのかも知れませんが、わたしには素朴な疑問がどうしても打ち消せませんでした。
「彼らは何故、焦っているのか?」という素朴な疑問です。
スピリチュアルなテーマと言うと一般に、オーラとか心の宇宙とか内面世界にふれるものですが、普通永遠性や精神の全体性が大切にされますね。無限の宇宙や意識の拡大がともなうはずのものと思います。
ところが焦りや性急さというものは、それと反対の極を占めている心の状態です。
グローバルな意識は、よくエコロジーでも言われることなのですが、スビリチュアル・ブームの場合極めて極私的な世界が、内面で広がりそれを「宇宙的」と感じてしまうのかもしれません。
ふと、心理学者 ケン・ウィルバーの「アートマン・プロジェクト」で語られるプレ・トランス・ファラシーを思い出してしまいました。日本人は、どこか未成熟な部分を抱えていて、容易に前個的な段階に先祖がえりしてしまいやすいということなのでしょうか?(注 ケン・ウィルバー 参照)

さてさて、エコロジカルな心のあり方を語るスローガン
「全地球的に考え、身近な実践をする」というのがありますが、これは極めてスピリチュアルな姿勢と思います。日々の日常の中に全体的なものを見つめながら、リアリティを見失うな、ということなのでしょう。
不安定な心とスピリチュアル・ブームが平行していたように、現在心の安定と全体性を感じるスピリチュアルなエコ・ライフが問われているのかもしれません。
いずれにしても人は「わたし、今、ここ」を離れては幻想世界に陥るということなのでしょう。
ブームが去って、より「ゆる系スピリチュアル」が深まってゆくことを期待しています。やまねこ、 でした。(=^o^=) 

~ケン・ウィルバー 心理学者 アメリカ ウィキペディアより~

ウィルバーについての網羅的な内容なので「前個的段階と超個的段階の混同」についての部分のみ『意識のスペクトラム』『アートマン・プロジェクト』の解説より抜粋します。(*^o^*)

・・・・こうした精神状態において、「無意識的地獄」と「意識的天国」とが――「意識的地獄」を特徴づける苦悩に煩わされていないと意味において――どちらもあたかも同じものであるように思われてくるのは自然なことであるといえるだろう。「前・後の混同」(“Pre/Post Fallacy”)とは、このように実際には非常に異なる成長段階をある共通項の存在を理由に短絡的に混同することを意味する。そして、ウィルバーが説明するように、『意識のスペクトル』は、まさに、こうした混同を犯していたのである。
普通、こうした混同は、結果として、2つの混乱を生みだすことになる。ひとつは、高度の成長段階(例:トランスパーソナル段階)を低度の成長段階(例:プリパーソナル段階)として誤解すること(“Reductionism”)。そして、もうひとつは、低度の成長段階(例:プリパーソナル段階)を高度の成長段階(例:トランスパーソナル段階)として誤解すること(“Elevationism”)である。
前者の典型的な例としては、高度の宗教的体験を病的な退行体験として解釈するものがあげられる。そして、後者の典型的な例としては、幼児的な体験を高度の宗教的体験として解釈するものがあげられる。

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