『水底の音楽』とメディア・ヘブン

重信川上流の滑川渓谷ドラゴンの滝

2012年6月3日

はい、どっと・もーにんぐ(=^o^=)やまねこでおます。
「スローリビング日記」として 始まったブログも五周年・・・まもなく100000アクセスとなります。 懐かしい五年前の記事を読んでいました。

水底の音楽   2007.7.14           
『川底の小石を見るのが好きだ。幼い日に重信川で泳いだ日は遠い。
川に飛び込んで、水の中で目を見開いたときの太陽の乱反射と リズミカルな水音、青みがかった肢体の動き、水底の風景 そして川底に無数の小石、大きな石小さな石、石たちの群生 青々と広がる水面下の世界に魅了された。
それは自ら川に足を浸し、身を沈めてみなければ決して見ることのできない世界だ。
シュタイナーの神秘学に触れたときの感動はそんな水底の光景を想い出す。 流れる川面ごしに小石を見つめていると 「時が流れる」という感覚が不思議なニュアンスで立ち現れる。 透明な時間の流れがあたかも、川底の石に反射しているように思われる。 流れ行く水、せせらぎの音、そしてひと所に留まりつづける川底の小石・・・。
「道の発端は、温和さという魂の基調と真理への畏敬の念に満たされなければならない。」
「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」・・・に述べられているように この日常意識をいわば「手段」として、真理への畏敬に捧げること。
内面によって取り巻かれた「外なる対象」を持つことが、最初の一歩になる。 シュタイナーはそれを『礼賛の小路』と呼んだ。 自分という人間をあたかも「遠い人」のように観察し続けることだろう。
般若心経に 「無・眼・耳・鼻・舌・身・意」という。 五識・六境は実体のないはかないもの・・・ということであろう。
実体のないはかないものとしての人間とは、「絶えず物象化する感覚作用」を指す。 でも、これは極めて東洋的な表現だ。 シュタイナーなら「生命(エーテル)世界への目覚め」と前向きにとらえるのだろう。 私たちを生命としてとらえるか、物質としてとらえるかということなのだろうか。  
六大無碍にして、常に愉珈なり  (りくだいむげにしてつねにゆがなり。) 即身成仏義
森羅万象は、虚空に満たされて、融合しているということ。
それは宇宙エーテルに満たされて、自然界が「そのまま成仏しているさま」を 美文で表現したもの。 さすがわれらが弘法大師(空海)かな。
現象の本質は、空なるものであり、空なることこそが現象を生じさせているという。 自然こそが目覚めた本質世界を顕現していると密教は説く。
宇宙法身が、そのまま顕現した森羅万象 物質宇宙と意識宇宙は成仏を表現する曼荼羅世界そのもの・・・というのが 密教の成仏論の嚆矢なのだが、はたして・・・果たして?  
法然に薩般若を具足して(ほうねんにさはんにゃをぐそくして)
心珠心王刹塵に過ぎたり(しんじゅしんのうせつじんにすぎたり) 即身成仏義
(あるがままにあれば、わたしたち人間は、宇宙の叡智をこの身にそなえてすべてを無限に包み込む無際限な心のはたらきをもつ) とはいえ、日常はさほど宇宙的感動に満ちた「悟れる荘厳世界」というものでもなく やはり淡々と流れてゆくものではある。
サラサラとう流れてゆく川の水・・・そして川底に留まり続ける小石との対話・・・。 そのようにシュタイナーの神秘学ごしに日常を眺めていると いつしか、いくつかの小石のように『内なる空間』にとどまり続ける何かを感じる。 それは、眼のようにではなく、耳のようにではなく、鼻のようにではなく 舌のようにではなく、触覚のようにではなく 感じられる何か。 五感の外にある第二の感覚のようなものと共にあるもの 内なるものに包まれた外なる対象・・・・水底の音楽のようなものが いわば内面に『保持される』かのように思われる。 音楽的な意識は、眠りと目覚めの間にあって 川底の小石のように水の音を奏でる。』
ふと四国アントロポゾフィー・クライスのTさんとface bookでコメントしていたら 面白いサイトを教えてくれました。『Think Social Blog』というサイトです。
『サステナブルかつ無常なシステムとデザイン思考
「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」 鴨長明の『方丈記』の有名な一節です。このフレーズで示されているのは、川の流れが絶えないという持続可能な状態と、それに一見矛盾するような、けれど、流れる水は常に異なっているという無常観だと思います。
サービスデザインにしてもその他のソリューションを考えるにしても、これからの社会で持続可能なしくみというものを考えていこうとすれば、このフレーズで描かれた「ゆく川」のように、持続可能でありながら常に変化しているようなしくみとして実現されることが重要になってくると思っています。
今回は、そんなサステナブルかつ無常であるしくみについて、すこし考えてみたいと思います。 「われわれは、ひとつの世界に生きている」 さて、『デザイン思考が世界を変える―イノベーションを導く新しい考え方』の中でIDEOのティム・ブラウンは、現代の「商品の販売者やサービスの提供者と購入者の間の力学」の変化として、
1.消費者が機能的な製品よりも幅広く満足できる経験を求めるようになるとともに、製品とサービスの間の境界が曖昧になってきている
2.個々の製品やサービスが複雑なシステムへの変化する中で、デザイン思考が新たな規模で適用されつつある
3.メーカー、消費者、その間にいるすべての人びとのなかで、工業化時代の特徴であった大量生産と無分別な消費のサイクルはもはや持続可能ではないという「限度」の時代の到来が共通認識されるようになった
を3つのトレンドを挙げた上で、こんな風に書いています。
これらのトレンドは、必然的にひとつの点に収束する。つまり、デザイン思考を利用して、参加型の新たな社会契約を確立すべきだということだ。
「買手市場」や「売手市場」といった対立的な言葉で考えるのはもはや不可能だ。われわれは、ひとつの世界に生きているからだ。 ティム・ブラウン『デザイン思考が世界を変える―イノベーションを導く新しい考え方』
「ひとつの世界」という言葉で捉えられた、買い手と売り手という非対称な対立が維持できなくなった状況に関しては全面的な同意を感じます。そして、その「ひとつの世界」においては、買い手と売り手という非対称な対立に代わる「参加型の新たな社会契約を確立」することが求められているということについても同様の考えを持ちます。』
恐るべき卓見かな。 確かに『メディア・ヘブンの時代』は始まっているのかなと思います。SNSやNPOや企業の メセナなどは直截な利害よりも流動性や交換性、融合、共同性を優先します。おそらくこれからは 利害や地域性や組織に縛られていたビジネスは、ソーシャル・ネットワーキングにとって代わる のでしょう。メディア・ヘブンのサスティナブルなビジネス・モデルの構築が求められています。

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