自由の境域

2009年5月27日

はい、どっと(=^o^=)やまねこでおます。
自由について考えています。人は何によって「自由」を感じるか?
行動の自由は、まず必要ですね。いかなる行動もできるということです。しかし、時として身体条件や社会的条件で行動の自由が制限されることがあります。車で出かけようとしても車が故障したり、出かけようとしても新型インフルエンザの疑いがあったり、持病が再発したり、鬱病が思わしくなかったり・・など行動の自由は専ら身体と社会に制約されているのです。

精神の自由はどうでしょうか?
大丈夫です。わたしがわたしの責任において何を考えようと自由です。わたしたちは、思考においては全くの自由なのです。隣人が憎たらしい・・・明日は何をしようかな・・・腹減ったな・・・鬱陶しい
天気だな・・・さて今日は何処へ???・・・ヘーゲルは自由人だったか???・・・などなどと考える自由はわたしに属しています。考えた内容について責任を問う人がいるとしたら、わたしだけですね。

昔は、特高・思想警察と言うものがいて、考えた内容を監督していました。共産思想やアナキズムなど考えた三木清や大杉栄は投獄されました。そして北一輝や大川周明も投獄されました。政治的な思想家は右翼も左翼も投獄されます。政治権力の時局がそれを決定してきたということです。
戦後は、幸いなことに思想・信条の自由が憲法で保障されるようになって来ました。いかなる思想を持とうと個人の自由なのです。

しかし、これが本当の自由なのでしょうか。あるいは、本当に思想・信条の自由を自分のものにしているのでしょうか?
自由とは「わたしが決める自由」と定義されます。本当に「わたしが決めているのか?」という疑問があります。誰かの干渉は受けていないか? 何かの支配は受けていないか?何か外に選択の動機はないか?
『わたしが決めるとすればわたしとは誰なのか?』
わたしの履歴書はわたしではなく、わたしの生育環境はわたしではなく、わたしの精神分析はわたしではなく、わたしの身体的な分析はわたしではない・・諸々のわたしに関する知識・情報・分析はわたしではないということは確かです。
ゆえに「わたし」とは「わたしではない」もの一切を排除したものであるといえます。
A=非AであるがゆえにA=Aであるとすれば、A=わたし 非A=わたしではない者と仮定するとわたしは、わたしでないものであるがゆえに、わたしはわたしである
そして、わたしでない者とは「世界」と言えるでしょう。
わたしは、世界であるがゆえにわたしはわたしである。ということになります。
すると世界を反転するものこそわたしと言うことになるのですが、これは論理に過ぎません。
わたしは自由に思考するものとして自由なのです。
感情は何かの影響を受けているかもしれない。意志は何かの影響を受けているかもしれない。
ただ、思考においてのみわたしたちは自由な存在でいられます。
考える自由をいかなる存在も法律も拘束することはできません。
ゆえに感情と意志を留保して、考える思考のトレーニングこそがわたしたちの自由への道しるべなのだと思っています。やまねこ(=^o^=)でおました。

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