2011年5月11日
はい、どっと・こむばんは(=^o^=)やまねこでおます。
長雨の初夏の雰囲気ですね。夢の里は、今日は車軸を流すような雨でした。 雨上がりは、山々が息を吹き返したように青々としていました。 畑の花や野菜も一息ついているのでしょう。 大地のオルガノンは、植物たち。そして植物のオルガノンは動物たち。 そして、おそらくはバイオスフィア=生命圏の頂点に人間がいるのでしょう。
四国アントロポゾフィー・クライスのTさんが、クリスマスに催したレクチャーを 思い出していました。
『動物たちは、ある意味で専門家とも言える側面があります。ライオンやチータは自分の手足をみれば「走るべく運命付けられている」ことがわかります。 モグラは自分の手を見れば「土を掘るべく運命づけられている」とわかります。鳥は、自分の翼をみれば空を飛ぶべく運命づけられているとわかります。 しかし、人間だけがじっと自分の手足を見ても「何をしたらいいのかわからない」のです。これは、何を意味しているのでしょうか。人間は生まれつきの専門家ではないということです。そして「何をしたらいいのか考える存在」だということです。ゆえに人間は本能のプログラムから、解放され生きる自由へといざなわれたのです。』
人間にとってもっぱら自由とは、「考える自由」ということなのでしょう。 二十世紀ロシアの神秘学者・数学者P.Dウスペンスキーは、『ターシャム・オーガナム』 のなかで「思考の運動を拘束するすべてのものは虚偽である。
思想の真の発展は、知識に向かって最大限の可能性を追求する姿勢の中にあり、いかなる既存の知識形態にも安住することを認めない努力の中にある。人生の意味は永遠の探求の中にあり、ただ求めることによってのみ、新たな現実を見出すことができる。」
これは、自由に考える・思考することによってのみ人間は人間であり続けることに触れている のではないでしょうか。 じっと手を見ていても何をしたらいいのかわからない存在としての人間とは 動物に比して貧弱な手足とひきかえに「考える脳」を発達させてきました。 この永遠の探究への衝動は、バイオスフィアの最高の芸術形態をもたらしているとも言える かもしれません。人体とは宇宙がもたらしたミクロ・コスモスとしての作品であり、 地球の最高次の生命圏の器官をなしているはずなのです。