2012年11月29日
はい、どっと・こむばんは(=^o^=)やまねこでおます。
ある老人病院に定期診察に母を連れて行っていました。ここ18年間数百回この病院には通って います。すでに院長さんは5回くらい変わっています。
主治医さんと一時間ばかり認知症を巡って話し合っていました。
主治医 『認知症を老化と見るか、病気と見るかはそれぞれの家族の問題でもあるのです。』 と語り、家族と医療と介護者がどこまで寄り添えるかが、大切なのだと先生は語ります。
砥部町を訪ね歩いてみると、介護や老人医療の問題で悩む方々に数多く出会います。 それは、家族の問題であるだけでなく、地域全体の問題でもあるのでしょう。
先生と話し合っていると、ふと人類学者カルロス・カスタネーダの『呪術師と私』の一節 を想い出しました。
以前秋に書いたブログに
『夢の里の野道を歩きまわっています。 冬に向けて、大地が変化してゆくのを感じているのです。 ふと見上げると、ただ一羽のカラスが風を感じて枝にとまっています。
「人は孤独なカラスだ。」とヤキ・インディアンのドン・ファンは弟子のカスタネダに言います。
「わしにとって大事なのは心ある道を歩むことだ。それがどんな道であろうとな。わしは瞬きもせず、その道をまっすぐに歩む。それが戦士の道なのさ。」
「お前はカラスは黒いと思っているのだろう。違うな、彼らは本当は光を集めて銀色なのさ。人間たちは光を見ないから黒く見える。カラスはカラスが銀色に輝くことを知っている。」
ドンファンが言うような「心ある道」を歩みたいものだと、カラスを見ながら思いました。 残念、やはりただの黒いカラスでした。
しかし、わたしもまた、孤独なカラスであることに 何の変りもありません。
まもなく、冬がきますね。』
確かにまもなく、冬が来ます。
『ドン・ファンは、「鳥になる」という言葉で、あらゆる生き物がその内部で絶えず変化し流動する「何百万もの光の繊維の束」でできている「現実(リアリティ)」の層を「見る」ことのできる意識状態に入れる、ということ以外のことを言っていない。生き物をつくっている「何百万もの光の繊維」か揺れ動き、伸長し、折れ曲り、分裂し、結合しあっているダイナミックな流動性にみちた「現実」の層では、あらゆる生き物が固定したアイデンティティなどもたないまま、つねに別のもの「‐になる」状態にいる。幻覚性のきざみを吸ったカスタネダが「カラスになった」とするならば、それは幻覚性植物の力をかりて、そうした「‐なる」現実を体験できる意識状態に入ることができたという意味しかもっていない。そこで、こうしたダイナミックな流動性と交換にみちた現実に対して、日常的現実の意識がとらえるような意味で「ぼくは鳥になったのかい」とたずねること自体くだらないことだ、というわけなのである。ようするに「ものは変わりはせん、ただ見方を変える、それだけ」なのだ』
と某人類学者の注釈書は解説します。
そんな大層な問題なのかなと、やまねこは思うのです。
わたしたち日本人は、本来孤独なカラスの道を歩むものです。それは、かつて松尾芭蕉が讃嘆した 「旅へのいざないと奥の細道へ憧れ、寂び」ということなのでしょう。
孤独なカラス、冬ざれた風景、大地と天空。 山水ラディカル、わびさびアヴァンギャルド いよいよ、時代は変わるかなという予感に満たされています。
ドン・ファンの「孤独なカラスの道」、「カラスは本当は銀色に輝いている」深いですねえ。
真木雄介の「気流の鳴る音」もう一度読みたくなりました。
意識の世界を考えると、複雑で難しすぎますね。迷路に入りそうです。
只、明るくしておこうと努力する日々です。笑