2011年11月26日
はい、どっと・こむばんは(=^o^=)やまねこでおますよ。
最近、親族の葬儀があり、今日は満中陰の法事・・・四十九日でした。
人は、死ぬと50日あまりで「あの世に召される」という思考は、仏教のみならずキリスト教でも50日祭を催すことにもうかがわれます。つまり、死の瞬間を迎えて1200時間を過ぎるころ生死の境から、彼岸もしくは天国といわれる場所に移行するということなのです。わたしたちは、まだ生きていますが、やがて死の世界に旅立ちます。臨死レポートで知られる医師のキューフララー・ロス女史は、くりかえし『死は、蝶の羽化のようなもの』という象徴を語ります。
親族の死を想いつつ、先月は映画『ゴースト』を観ていました。
死において自由な者は、人生を完成するものなのかなと思いました。
人生という謎、そしてひとりひとりの生の重みと旅立ちは、わたしたちに「なぜわたしはここにいるのか?」という問いかけをもたらしてくれます。
『人生は廻る輪のように』キューブラー・ロス著(角川文庫)
エリザベス・キューブラー・ロスは、20世紀に大きな足跡を残した人物であることは確かですが、日本ではそれほど知られていません。スピリチュアル・ブームであるにもかかわらずということでしょう。
そもそも「スピリチュアル」とは、キューブラー・ロスやマザー・テレサの活動をさして言う言葉とわたしは思っていましたが、今の一般で言う「スピリチュアル」とはオーラの泉やアロマ・セラピーなどメンタルなシェイプ・アップといういくらかファッショナブルでミスティックな用語と化しているようです。それほどまでに「スピリチュアル」は多義的で、曖昧模糊としたものなのかもしれませんが、それもOKと思っています。殺伐とした破壊的社会が実現してしまった世紀末以来「スピリチュアル」はひとつのキーワードとして今も有効な気がします。
さて、キューブラー・ロスですが1970年代以降「死ぬ瞬間」以来医師として患者の死の見取り医療活動・・ターミナル・ケアのフロンティアとして著名なロスの手になる「自伝」が本書です。しかも死の数年前に書かれ、続く「ライフ・レッスン」は死の前年・・病床で書かれました。
河合隼雄氏と柳田邦夫氏の対談「心の深みへ」のなかでもロスについては多くのページを割いて触れられています。
三つ子として生まれたロスは、アイデンティティに深く謎をかかえる少女として育ちます。姉たちと自分がひとり孤立しているように思えてしまい、自分とは?という究極の問いにとりつかれてしまうのです。
そして、長じて医師を目指し、女学生時代に大戦後ナチスへのレジスタンス運動との関わりから(彼女はポーランド系)アウシュビッツ収容所のガス室を見学し、象徴的な体験をします。捕虜たちが寝起きしていたベッドに描かれた夥しい美しい蝶の絵を目にして衝撃をうけるのです。
人間は死に際して、蝶のように彼方に飛び立つ・・という原体験のようなものが彼女の魂に刻みつけられるところは、とても印象深い。
やがて、医師となり患者の死に出会うごとに「生への謎」は「死への謎」へと変化してゆきます。
ロスは、「死を看取る医師」へと導かれてゆきます。数万人の看取りと死への理解がロスをメタモルフォーゼさせてゆく、プロセスは、現代の介護医療、終末期医療のフロンティアならではのドラマティックな展開を実地に生きていると感じました。そして、夫との不和、離婚。死の専門家に「別れの体験」はつきものなのでしょうか?
アメリカに渡り、当時全盛を極めてニューエイジ文化の拠点・・カリフォルニアでの様々な体験をします。
チャネリング、死者との交流、全体医療とのつながりなどなと火中の栗を拾うかのように現代スピリチュアリズム/ニューエイジ文化の中で翻弄されるロス。詐欺師のチャネラーに命を狙われたり、エイズの子供たちを保護して周辺住民から嫌がらせや脅迫銃撃を受けたり、ターミナル・ケアのイメージと程遠いほどにロスの人生は波乱に満ちて、ドラマティックでさえあります。そして、2004年、本書を書き終えてロスは「ライフ・レッスン」で人生のエッセンスを総括して生涯を閉じます。
ロスの葬儀では、最後に小箱に収められた蝶を空に解き放したと言われています。
マザー・テレサとともにわたしが尊敬している人のひとりです。
ウィキペディア~キューブラー・ロス
エリザベス・キューブラー・ロス(1926年7月8日-2004年8月24日)は、精神科医で、死と死ぬことについての画期的な本(『死ぬ瞬間』)の著者 。その本の中で彼女は初めて今日死の受容のプロセスと呼ばれているキューブラー・ロスモデルを提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。