2008年10月24日
はい、こむばんは。(=^o^=)やまねこです。
今週は、やまねこは松山市を巡回しながら、インド・チベット講座の案内をしております。
過去、お世話になったお寺の住職さんやお医者さん、教育関係などなどチベット仏教講座とインド音楽コンサートの案内をしながら、ご案内かたがたあいさつ回りです。
今日は、『ガンガー・サンガ~インド古典音楽と舞踊の夕べ』を企画した道後湯の町の商店主シゲシゲさんと廻っていました。
途中、愛媛大学も寄ったので、キャンパスでゆっくり『人間の心の謎』を巡って、議論などしていました。彼は、わたしの行った大学の10年後輩で、人間科学部で心理学を専攻していたとのこと。このところひょんなことから、共通の友人などもおり、問題意識が似ているということに気づいたのでありました。
彼が言うには『スピリチュアルにハマる人は逃げている』というのですが、わたしも部分的には共感します。つまり、現実を自分が思い描くように色付けして、その色彩に染まった部分のみ受け入れるという心のあり方です。
それは、どこかしらフロイトの言う合理化に似ているというのです。
キツネが手の届かないブドウのことを『あれは、酸っぱいから要らないや』といったという有名なイソップ童話です。
この話には、尾ひれがついていてブドウとはフロイトの言う『現実原則』だとのことです。
フロイトは、その欲動心理学の構図の中で『快感原則と現実原則の間の葛藤』を描いて見せました。
自我の防衛として、快感原則が満たされないときに逃避や合理化をして自我の安定を得ようとするというのです。そして、人生のオカルト的な側面はすべて、リビドーのなせる退行なのだと捉えます。
ところが、弟子のC.Gユングは、フロイトに異説を唱えて決裂します。
『すべてのオカルト現象が退行なのではなく、むしろ自我のファクターとして人類の無意識の働きとして顕在化することがありえる』として退行を集合的無意識論と関連付けます。
それに対してフロイトは『君が、性欲理論を放棄して、オカルト現象に執心するなら君を破門しなくてはならないが・・・』と迫った瞬間にユングはPK現象を引き起こします。
わたしたちの心は、様々なパワーの複合体であるというのがわたしの見方です。
それを欲望の束と見ようが、霊的なるものの舞台と見ようが、情報の渦と見ようが宇宙的なカルマの糸で紡がれた織物であることに変わりはありません。
それを密教では『秘密』と呼びます。
わたしたちは、心の謎を解き明かしてその広大な『秘密の世界』と『日々の現実』の間に渡されたただひとつのリアリティに目覚めるべく『人生と言う場所』を必要としているのかもしれません。
シゲシゲさんと果てしなくそんな議論をしているうちに学生さんたちで賑わう大学キャンパスはゆっくりと夕闇に包まれていました。
やまねこ(=^o^=)でした。