「孤独なカラスとカバラの木」

2008年1月23日

人は孤独なカラスだ。
これは、ヤキ・インディアンのドン・ファンの言葉です。
霊学を学んで行くということは「孤独なカラス」の道を歩むことだとわたしも思っています。
これはシュタイナーが現代人の精神生活を見たときに語った共同体形成についての意識魂の時代という部分に照応していると思われます。
わたしたちは、すでに与えられた共同体によって自身の存在理由をすべて成り立たせることができないほどに意識が明るくなっているということです。
かつて、人間は血縁や部族全体をあるいは社会的・文化的共同体を「わたし」と呼べるほどに集合的魂を持っていました。
精神的・霊的部分が身体、個人を覆い尽くしていたということです。
しかし、近代以降は個々の魂に分離され、個人の内面が全体性から離れ孤独なものとして霊性の道を歩む時代へと進んできているということです。
個が分離され、再び全体へとつながる道を個の魂のうちで形成する時代になったということです。
これをシュタイナーは孤独な秘儀参入と呼び、心理学者C.Gユングは「個性化」と呼びました。
内面の統合の基礎を「個体」に置いたのです。わかりやすくいえば「わたしはどこまでもわたしである。」ということと「わたしの生きる意味をわたし自身がみいださなければ、なにも確かなもの はない。」ということです。つまり、魂の孤独な営みの中でしか、わたしの生きる根拠を明らかにできない時代に入っているということでしょうか?
それはまた、孤独の内にこそ、そして個々の魂の活動のうちにこそ「霊・精神」という客観世界が開けてくるということを意味します。
これまでのように全体的規範やモラルに盲目的に従っていれば生きがいを見出せるという時代はすでに終わっているということなのでしょう。
また、シュタイナーは「主観と客観の間の深遠を越える橋は、秘儀参入と芸術である」と語ります。
それは思想を生きた実体とする秘儀としての行為であり、概念化され灰色の理論に沈んだ現代人の魂を再び血の通った叡智の器として形成する試みでもあるのでしょう。
最近の流行のアニメや若い人たちの苦悩のあり方を見ているとぎりぎりのところで、個人が個人を 問い詰め、『生まれ出ずる悩み』を時代とともにしているように思われます。
つまり、若者たちを通して、時代そのものが苦悩している姿のように見えるのです。
新世紀エヴァンゲリオンが語るように「人類補完計画」はすでに一人ひとりの内面で始まっているのかもしれません。
エヴァのオープニング・シーンで繰り返し『カバラの木』が立ち現れるのはこのことと無関係ではないような気がします。
カバラの生命の木がめざすところは、内面の統合と世界の創造・救済という極めて深いテーマだからです。


ウィキペディア~「カバラ 生命の木」

生命の樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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カバラに記されている生命の樹生命の樹(せいめいのき、Tree of Life)は、旧約聖書の創世記(2章9節以降)にエデンの園の中央に植えられた木。命の木とも訳される。カバラではセフィロトの木 (Sephirothic tree) という。

「禁止命令を無視して」知恵の樹の実を食べた人間が、生命の樹の実も食べるのではないか、と日本では主なる神と訳されているヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)が恐れてアダムとイヴを追放することに決めたとされる。

[編集] セフィロトの樹
セフィロトの樹は、神秘思想のカバラにおいてさまざまな解釈がなされ、近代以降の西洋魔術、特に黄金の夜明け団などでは生命の樹をタロットカードと結びつけての研究が行われていたことでも有名である。10個のセフィラと22個の小径(パス)を体系化した図も同じく「生命の樹」と呼ばれる。


 

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