2011年1月31日
はい、どっと・もーにんぐ(=^o^=)やまねこでおますよ。
『スローリビング日記』を始めて、すでに四年が過ぎます。 出発点に戻って、やまねこは『なぜ、スローな暮らしがいいのか?』ということについて 考えています。
「答えは問いの中にある」と言われますが、スローな暮らし方は、何よりも 考える時間が確保できるということに尽きると思います。「ゆっくり考える」ということは 「生活そのものをじっくりと味わう」ことに通じています。
わたしたちは、余りにも多くの 生活要素を持ちすぎているのではないかな。 ある人が、レストランに行ってその店のすべてのメニューを楽しもうとしたら、誰でも 満腹感を超えて、不快感と味覚異常、無感覚に陥ってしまうように無秩序な生活は、わたしたち の精神生活を破壊してしまいます。
しかし、多くの人は「そんな悠長なことは言ってられないよ」 あるいは、「そんなゆとりある生活なんて夢のまた夢だよ。時間はないんだ。」と言うかもしれ ません。 そう、「時間がない」というのは、正しい。 何のための時間がないのかと言うと「ゆっくり考える時間」ということなのでしょう。
わたしたちの生活は仕事・プライベートを問わず、多くのルーティーンによって占められて います。仕事、育児、通勤、雑務、交友、趣味などなど生活を維持するための様々なあれや これやです。確かになすべき多くのことがあるのは誰でも一緒ですが生活を維持するという 目的は共通します。
しかし、「どんな生活を維持したいと考えているのか?」については ゆっくり考える時間はないのです。 『森の生活』の著者H.Dソローは、ウォールデン湖のほとりに粗末な小屋を建てて、 町場から移り住んだ時にこう考えました。
『「私が森に行って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。生きるのに大切な事実だけに目を向け、死ぬ時に、実は本当は生きていなかったと知ることのないように、暮らしが私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は、暮らしとはいえない暮らしを生きたいとは思いません。私は、今を生きたいのです。」
それはまた、彼が提唱した「ロハス」というものを実践するためでもあったようです。 ソローは、人間は自由に生きる為にはできるだけ簡素に暮らし、生活を小さくする必要があると 考えていました。
ソローが森の暮らしを試みた時代からすでに150年が過ぎます。 わたしたちにとって最も基本的で必然的な生活とはなんなのか?をそろそろ問い直しても いいのではないかな。
なぜなら、わたしたちは生活そのものよりも生活から派生した「抽象的空間と時間」を あまりにも持ちすぎ、主客転倒しているからです。 生活を維持するために生活が破壊されるのだとしたら、それはもったいないことです。 スローな暮らし方は「ゆっくり考える」ことから始まるものと思います。 そして、考えながら暮らしをゆっくり味わってゆけば、すべてのメニューを楽しむなどとは 思わなくなるのではないでしょうか。 何よりも自分にとって大切なこと、具体的なことに意欲を注げると思います。 この多忙な生活の中に小さなゆとりの場所を見出すなら、それがスローリビングの出発点 になると考えています。