エヴァの聖地15 『水底の音楽』&『テオとティー』

ジャン・ミシェル・ジャール 「 テオとティー 」
フランス 現代音楽作曲家 仏ユニセフ親善大使
 FIFAテーマ音楽担当。モーリス・ベジャールの子息。ウィキペディアより

2008年4月8日

水底の音楽            mind harp

川底の小石を見るのが好きだ。  
幼い日に重信川で泳いだ日は遠い。
川に飛び込んで、水の中で目を見開いたときの太陽の乱反射と
リズミカルな水音、青みがかった肢体の動き、水底の風景
そして川底に無数の小石、大きな石小さな石、石たちの群生
青々と広がる水面下の世界に魅了された。
それは自ら川に足を浸し、身を沈めてみなければ決して見ることのできない世界だ。
シュタイナーの神秘学に触れたときの感動はそんな水底の光景を想い出す。 流れる川面ごしに小石を見つめていると 「時が流れる」という感覚が不思議なニュアンスで立ち現れる。
透明な時間の流れがあたかも、川底の石に反射しているように思われる。
流れ行く水、せせらぎの音、そしてひと所に留まりつづける川底の小石・・・。 「道の発端は、温和さという魂の基調と真理への畏敬の念に満たされなければならない。」
「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」・・・に述べられているように この日常意識をいわば「手段」として、真理への畏敬に捧げること。
内面によって取り巻かれた「外なる対象」を持つことが、最初の一歩になる。
シュタイナーはそれを『礼賛の小路』と呼んだ。
自分という人間をあたかも「遠い人」のように観察し続けることだろう。
般若心経に「無・眼・耳・鼻・舌・身・意」という。
五識・六境は実体のないはかないもの・・・ということであろう。
実体のないはかないものとしての人間とは、「絶えず物象化する感覚作用」を指す。 でも、これは極めて東洋的な表現だ。
シュタイナーなら「生命(エーテル)世界への目覚め」と前向きにとらえるのだろう。
私たちを生命としてとらえるか、物質としてとらえるかということなのだろうか。  
六大無碍にして、常に愉珈なり  (りくだいむげにしてつねにゆがなり。)
即身成仏義 森羅万象は、虚空に満たされて、融合しているということ。
それは宇宙エーテルに満たされて、自然界が「そのまま成仏しているさま」を 美文で表現したもの。
さすがわれらが弘法大師(空海)かな。
現象の本質は、空なるものであり、空なることこそが現象を生じさせているという。
自然こそが目覚めた本質世界を顕現していると密教は説く。
宇宙法身が、そのまま顕現した森羅万象 物質宇宙と意識宇宙は成仏を表現する曼荼羅世界そのもの・・・というのが 密教の成仏論の嚆矢なのだが、はたして・・・果たして?  
法然に薩般若を具足して (ほうねんにさはんにゃをぐそくして)

心珠心王刹塵に過ぎたり (しんじゅしんのうせつじんにすぎたり)

即身成仏義 (あるがままにあれば、わたしたち人間は、宇宙の叡智をこの身にそなえて すべてを無限に包み込む無際限な心のはたらきをもつ) とはいえ、日常はさほど宇宙的感動に満ちた「悟れる荘厳世界」というものでもなく やはり淡々と流れてゆくものではある。 サラサラと流れてゆく川の水・・・
そして川底に留まり続ける小石との対話・・・。
そのようにシュタイナーの神秘学ごしに日常を眺めていると いつしか、いくつかの小石のように『内なる空間』にとどまり続ける何かを感じる。
それは、眼のようにではなく、耳のようにではなく、鼻のようにではなく 舌のようにではなく、触覚のようにではなく 感じられる何か。
五感の外にある第二の感覚のようなものと共にあるもの 内なるものに包まれた外なる対象・・・・水底の音楽のようなものが いわば内面に『保持される』かのように思われる。
音楽的な意識は、眠りと目覚めの間にあって 川底の小石のように水の音を奏でる。

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“エヴァの聖地15 『水底の音楽』&『テオとティー』” への2件の返信

  1. 記事全体をお経のように聞きました。
    宝石のような言葉が川底の流れのように輝いています。
    心が洗われました。

  2. ありがとうございます。=^^=
    やまねこはこの文章を何度も繰り返しUPしていましたね。
    主軸であったシュタイナーの神秘学と密教を彼なりに表現したのでしょう。私はまず「いか超」を渡され次に般若心経・八正道・即身成仏義を暗記させられました。笑

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