2008年1月21日
スローアイランド大三島に行って、ずいぶん癒されましたので、再び今年のお四国遍路の計画を練っています。
今年は、そもそも遍路とは何か?というテーマで考えてみたいと思うのです。
四国遍路開創1200年という伝統ではあるのですが、わたしは四国に住んで子供のころから空気のように存在している風習なのでかえってその意味を深く問うことがなかったのかも しれません。四国の人間はある程度みんなそんな風に風景に溶け込んで見えにくいのが「お遍路」というものなのです。
51番札所石手寺には「渡らずの橋」というものがあります。
わずか2メートルの川にかかった橋なのですが渡れない橋と言い伝えられます。橋の向こう岸には弘法大師が佇んでいます。托鉢行のお姿です。
ここは、別名「お道開き」とも呼ばれていて四国遍路開創の因縁を表わしているもののようです。
お四国遍路に出るときはわたしは、いつもここでお大師さんにお賽銭を上げて、祈ってから旅立ちます。渡らずの橋の背中側には「衛門三郎」の姿があります。土下座をして弘法大師の方を見ている様子です。・・荏原の里の豪農 衛門三郎の伝承はこのようなものです。
むかし衛門三郎と言う強欲者の庄屋がいました。(今の八坂寺近くの剛農) 貧しい百姓から米を集めるばかりでなく、自らの富を誇り、困ったものがいても何も分け与えることなくひたすら蓄財に励みました。村では恐れられ、領主のように権勢を誇っていました。あるとき、彼を乞食坊主が門前に現れ、喜捨を請いました。
衛門三郎は言います。「このくそ坊主め、あっちへいけ。お前のような汚らしい奴に与えるものなどない」・・・・・
ところが翌日もそのまた翌日も乞食坊主は喜捨を請いに現れます。7度同じことが、続きましたがごうをにやした衛門三郎は、ついに怒りが爆発。「このくそ坊主。貴様のような奴はこれがお似合いだ。」と吐き捨て、坊主の喜捨のため持っていた鉄鉢を杖で叩き壊します。鉄鉢(てっぱつ)は八つに砕け散ります。僧侶は黙ったままた立ち去ります。
翌年から彼の家に怪異がおきます。
衛門三郎の八人いた子供が、次々と死んでゆきました。
そして、またたくまに八つの墓(塚)ができました。八人目の子が死んだ時に、衛門三郎は噂で自分が鉄鉢を叩き壊したのは、空海という乞食坊主であったことを知ります。。衛門三郎はわが子すべてを失った 絶望の果てに前非を悔いて、空海に侘びを言うため旅に出ます。
今も、空海は四国を回っているというという噂を頼りに四国をさまようことになります。21回四国をさ迷い歩き再び空海に再会します。それが現在の徳島県12番札所焼山寺と言われています。
力尽きた衛門三郎は、空海に強欲不遜な前非を悔いて懺悔しますが、すでに病苦と疲れから死んでしまいます。
空海は衛門三郎の死を看取ります。「お前は、ふたたび地上に転生してくるだろう。今世を覚えておけ」と空海は諭します。・・・・つまり、衛門三郎が初代のお遍路さんということです。
遍路開創説話として語りつがれたお話なのですが、四国遍路をする者はみんな衛門三郎の人生を振り返りつつお四国の道をたどります。今も弘法大師は四国の何処かにいて札所をめぐっている という・・その後姿を追って、巡拝の旅を続けてゆくのでしょう。
だからこそ、お遍路さんの背中には「同行二人」と書かれているのでしょう。
お四国遍路は衛門三郎のように自分の人生を見つめなおす懺悔の旅でもあり、また再び大師にまみえる再会の希望への旅でもあるのかもしれません。