2013年8月14日
はい、どっと・ちゅーにんぐ(=^o^=)やまねこ庵でおます。
お墓の仕事は、明日で終わりです。
今日はポツダム宣言受諾の日であり、明日8月15日は、終戦記念日ですね。 千鳥ヶ淵では、日本国政府主催で戦没者慰霊祭が催されます。
毎年思うのですが、 夏のお盆はご先祖様をお迎えしてこの世を去った方々と共に過ごします。そして、お盆の 安らぎの中で家族のだんらんを楽しみます。 そんな時期に終戦記念日が重なっているということは何かしら不思議なことと思うのです。
やまねこは、幼い頃祖母の家で過ごしました。それは、村墓地の鎮守堂というもので 今でも松山市内に残っています。昭和三十年代の頃のことです。
祖母はやまねこにいつも「かたつむり」を食べさせました。疳の虫がついたということでした。 そして、祖母から「頭が三角のお墓は軍人さんのお墓だから敬う様に」と教えられました。 父はいつも戦争体験を聞かせてくれました。 母は陸軍病院に従事して終戦を小諸の結核病棟で迎えたことをことあるごとに話しました。
父の陸軍体験はすさまじいもので、出征したのは敗色の色濃い時期です。 敵兵に包囲され、五人で塹壕で籠城したそうです。 その時、戦陣訓にあるように「俘虜の辱めを受けるよりは玉砕せよ。」を想いだし 手りゅう弾をめいめいが持って自決を決意したそうです。 しかし、誰も信管を抜いて爆発されることはできなかったため中国で捕虜となり、終戦を 迎えて帰国できたそうです。
母は、当時日本赤十字病院の陸軍病院勤務でした。 多くの仕事仲間が、広島の赤十字に転属になる中、昭和二十年に長野県小諸の結核病棟に転属となり、そこで結核に感染しました。
もともと面識のあった父と母が結婚したのは、終戦直後の昭和二十一年のことです。 ふたりとも命からがらの終戦を迎えての結婚でした。
もしあの時、終戦後ストレプトマイシンが民間に配られなかったら母は結核で死んでいた でしょうし、もしあの時五人のうちの一人でも手りゅう弾の信管をぬいていたら父は 「名誉の戦死」となっていたでしょう。また、母が広島に転属していればヒロシマで原爆 にあっていたことと思います。 どちらが欠けていたとしてもわたしがこの世に生を受けていないのは、どう考えようと事実 なのでしょう。
昭和三十年代はいたるところに「戦争の匂い」が残っていました。 幼いころ遊んだ場所は爆撃から避難するための「防空壕」です。ゼロ戦の格納庫もありました。 敵機から爆撃されないためのものです。 戦争で焼け残った町の風景はどこかつぎはぎで爆撃を受けた場所は市街地でリニューアルされた ばかりの商店街でした。
それでも田舎を訪れると必ず「頭が三角のお墓」に出会います。 これは全国津々浦々の里山から出征し、戦死した方々がいるということなのです。 お墓と共に過ごした五十年がすぎてゆきました。 戦争の記憶は、風化しつつあるのかもしれません。
やまねこは戦争は体験していませんが、その 匂いはかぎ分けられます。 今の政権はとても危険な連中です。 戦時にはまっさきにオスプレイに乗って国外脱出する方々ですよね。
やまねこが三歳・四歳の頃に遊んだ村墓地の前に立つと今でもあのころを懐かしく思い出します。