森の哲学者

2011年8月23日

はい、どっと・もーにんぐ(=^o^=)やまねこでおますよ。
秋雨かなと思わせる恵みの雨が続いています。
雨が上がり、涼しげな風が吹き始めると初秋ですね。

『考える人間』について考えています。
そもそも人間が脳を発達させてきたのは、考えるからです。
哲学者 池田晶子さんの『考える日々』を読んでいました。
そのなかに注目すべき一節を発見!!
『眼と言う器官に先立って、光が環境要因として必要であるとすれば、われわれの脳という器官に先立って考えるということが必要なはずである。
光を通して眼が形成されたように思考する宇宙を通して われわれの脳は形成されたのである。』
ニワトリが先か、タマゴが先かと言う議論よりも、これほど明確な捉え方があるでしょうか。
脳とともに壊れてゆく精神や唯脳論が定番となり、人間の主体の座を脳に措定しているのが、現代科学の見方なのですが、これは、人間に精神作用がないといっていることと同じです。
もしかりに脳のみが人間の主体ならば、コンピュータと人間に違いはないということになります。
つまり、『内側』というものがなく『情報処理』の統合センターが人間の主体と言うことになるのではないかな。
精神なき人間は、内面という「妄想」を捨てて、何処へ行こうとしているのでしょうか?
科学とは、所詮すべてを静止させて、死んだものとして対象化して、記号化するものなのでしょうか。
脳に先立つもの・・・『思考の宇宙』をわたしたちは『精神』と呼ぼうが『神の領域』呼ぼうが、脳の活動の素材があったことは確かです。池田さんの数々の「考える存在としての人間論」を読んでいると深海魚が光の無い海底で、眼という器官を退化させてゆくように、精神の無いデータの集積としての人間観は、人間の退化のシンボルのようにおもえてしかたありません。
情報センターとしての脳とは、思考せざる人間の空疎なあり方かもしれないのです。
空を飛ぶがゆえに鳥、海をおよぐがゆえに魚なのであれば、考えるがゆえに人間なのですから・・・。

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