2013年5月7日
はい、どっと・もーにんぐ(=^o^=)やまねこ健康センターです。
今朝は、メンタル・ヘルスについて考えています。
やまねこは、夢の里を希望の観測センターにしようと考えています。
さて、希望的観測とは?
「希望的観測(きぼうてきかんそく、英: wishful thinking)は、信念の一形態であり、証拠や合理性ではなく、「そうあって欲しい」とか「そうだったらいいな」という希望に影響されて判断を行うことをいう。一般に、好ましい結果が好ましくない結果よりもありそうだと予測することを指す。」 ということなのですが、一方で 「認知バイアスや意思決定のまずい方法という以外に、希望的観測は誤謬の一種ともみなされ、事柄の真偽を事実に基づかずに希望に基づいて決定する場合を指す。このような希望的観測は感情に訴える論証に基づくもので、論点のすり替えの一種である。 希望的観測を使い、状況対人論証の一形式を生み出すことができる(「あなたはAだというが、それはBを導き出したいがためだ。だからAではない」)。 希望的観測は意図せざる結果を見逃す原因となることがある。」
「あなたは明日は晴れだというが、それは明日ハイキングを予定しているためだ。」 というようなことですね。
それでもなお、希望的観測には有効性があります。
希望が人間から引き出すものはアクティブな 活動性だからです。
「夢みたいなこと言ってないで。」「長生きするよ、現実は厳しいんだ。」などと 揶揄される希望とは、失望と不幸が湧きだしたパンドラの箱から最後に飛び立つものです。
欲望と希望に動かされるのが、人間ということなのでしょう。 希望を種まく作業に専念したいものです。
わたしが、希望の観測をしたからといって大して世の中の役に立つという保証はありません。 しかし、それほどにこの社会が失望と不安に満たされていることもまた、確かな事実なのです。
ただ、ひたすら希望の種をまく。失望は失望に終わることはないこと。 「ひとりになったら、種を撒け。」とは、やまねこがかの福岡正信翁から教わったことです。
わたしもまた、病理と失望のどん底から這い上がってきた青人草のひとりにすぎません。 雑草のように生きるのも一考かなと思っています。