『神秘と日常』~スピリチュアル考 3

ドイツ ロマン派 フリードリッヒ
ドイツ ロマン派 フリードリッヒ

2008年11月20日

はい、どっと・こむばんは(=^o^=)
メンタル・ヘルス=心の健康を考えています。このテーマは「バランス感覚の育て方」と言い換えてもいいかな。
わたしは、けっこうことによらずハマりやすい人なので、バランス感覚が未熟なタイプなのですが心の健康と言うテーマについては、一過言あります。
とにかく、心の病歴が豊かなんですよ。(笑)
神経症から欝、双極性障害や人格障害まで何でもありと言う感じでしょうか。そんな過去のパトグラフィー(病蹟学)からも言える事なのですが『日常性』は貴重な心の度量衡と思っています。日常は、とても神秘的な世界と言ってほぼ間違いないでしょう。

わたしたちには、肉体と言う精緻な神殿が与えられているのです。
呼吸・心臓の動き、血液の流れ、消化、代謝、神経系などなどどれもが神秘的なつながりのなかで宇宙の働きを反映しています。
わたしたちの日常感覚の多くがこの肉体の深い叡智の元に営まれています。
そして、そんな身体活動と深く関わりながら精神活動を営んでいます。肉体が神秘なように精神もまた、深い謎を秘めています。ちょうど地球の大地の活動と海の活動のようにわたしたちは、心と体の活動を営みながら生きているのです。
霊学は、そのような神秘な日常を宇宙とのかかわりの中で捉え返す『叡智』ともいえるでしょう。
最近のスビリチュアル・ブームは、わたしの捉え方とは少し違うような気がしています。
日常と神秘が別世界のように分離することがあって、神秘が日常の上にある、あるいは超越してあるというような捉え方をする人もいます。わたしは、現実はひとつと考えていますから、神秘的な日常または、日常的な神秘しかないと思っているのです。

心を病んで来ると日常が嫌悪されたり、平板になったり、苦痛に満ちたりしてくるものですがなんとかしてそこから逃れようともがきます。
神秘は、そんな人にとっては魅惑的に見え、魂の避難所のようにも思われるのかもしれません。
しかし、それは日常性から離れた世界ですから、自分の願望や思い込みを投影した閉じた世界を作る危険もあるのです。
日々の暮らしの中で確かめることのできない神秘は、時として魂の活動のバランスを破壊しますから注意が必要です。

正しく見る、正しく考えるというお釈迦様の八正道は、そんな危険からわたしたちを守ってくれる灯りとも言えるでしょう。
スピリチュアル・ブームが去った今、本当の意味で正しく見て考えることが大切なのかもしれませんね。
やまねこ(=^o^=)でした。

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“『神秘と日常』~スピリチュアル考 3” への2件の返信

  1. 神秘が日常生活そのものか、日常生活を超越しているか、という問題は「ものは言い方」であって、「自分の霊的波長を変える事で日常の労働も、遊びも、違った相貌を現す」という事だと思います。

    誰の言葉か忘れましたが、偉いお坊さんが「日常生活が禅!」と言っていたと記憶しています。座禅だけが禅じゃないという事ですね。
    しかしやはり座禅も必要です。

  2. いか超に、日常生活から乖離してはならないとあります。シュタイナーなどの霊的世界に触れて、我流の変な解釈で幻想の世界にいっちゃってる方もいらっしゃいました。別の言い方すると、統合失調。幸か不幸かブルジョワの方ですね。
    私などは、貧乏暇なしなので、日常生活を疎かにすると、食べられなくなります。
    良き重りがついているので、簡単には飛べません。よって、「座って飛ぶ」ことを学ぼうとします。座禅に通じますね。
    若き日にやまねこは、おおえまさのりさんに、「飛んで飛ぶんじゃない。座って飛べ」と言われたそうですが、私は、まだまだ遠い道のりです。

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