2013年11月12日
はい、どっと・もーにんぐ(=^o^=)やまねこ庵でございます。
スモール・ドーム・プロジェクトのコンセプト・ワークです。
やまねこは、かねてから「遊空間=パーソナル・ドームハウス」というものが楽しいと思っている のです。
バックミンスター・フラーの住居哲学 について考えています。
フラー博士は、日系庭園アーティストのイサム・ノグチと終生交流 を深めました。
イサム・ノグチはアメリカ出身でありながら、日本文化の美学を再発見した アーティストです。
『バックミンスター・フラーの世界』梶川泰司訳
(ジェイ・ボールドウィン著:梶川泰司 訳)P-36~39
素材の使用量を削減するには三つの基本的な方法がある。第一に、デザインをより小型化することである。第二に、素材を最も効率的な形態で利用すること(すなわち、より少ないものでより多くを為すこと)である。第三に、単位体積あたりの表面積の最も小さな(故に最小限の素材で可能な)幾何学構造を利用することである。最近使われ始めた専門用語では、これを「物質を情報に置換する」と言う。フラーは、結果として生じる超物質化を「エフェメラリゼーション(短命化)」と呼んだ。より少ないもので多くを為す(do more with less)ということは、究極的には無によってすべてを為す(do everything with nothing)ことになるのかと学生が冗談めいてたずねた時、フラーは肯定した。純粋に超物質的(メタフィジックス)な状態に近づくほど、デザインは完全なものになる。エフェメラリーゼーションはデザインに付加するものではなく、自然の原理を応用した結果として自然に生じる現象である。それはすでにある環境に適応していく戦略というよりも、今いる環境をどの方向に選択するかだ。
エフェメラリゼーション(短命化)はエネルギー消費にも当てはまる現象だった。フラーは4Dハウスを、そこに住む人々の日常生活を支えると共に、屋内外を行き来するエネルギーと物質と光の流れを制御する「弁」であると見なしていた。住宅を「弁」と見ることによって、シェルターをデザインする新しい方法論が生まれてくる。「住宅とはモニュメントではなく、生活に快適なサービスを供給する装置とみなすべきだ」とフラーは言った。この概念はあまり受け入れられそうに無かったが、車も服もそういった観点から見れば同じ装置である。現実的にどう暮らすか、どう暮らしたいかということとは、もはやまったく一致しない方法で住宅について考える習慣がすでに巧妙に刷り込まれてきたのである。
庭園アーティストのイサム・ノグチと宇宙船地球号のバックミンスター・フラーが終生 交流を深めていたことは、よきヒントかなと思います。
茶室と庭園は私たち日本人の「侘びと数寄の文化」のシンボルですが、これはフラー博士の 「do more wtith less」というエフェメラリゼーションの哲学に通じています。
『茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。 いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとする やさしい企てであるから。』
これ、なんだかわかりますか? 明治の文人、岡倉天心が著した『茶の本』(The book of tea) の冒頭です。天心がボストン美術館に勤務の時期にニューヨークで英米人に向けて書かれた本 です。お茶やお花が習い事として親しまれている一方であまり読まれない本ですね。
本書で天心は、茶道のエッセンスを語りかけます。 茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。
○われわれは生活の中の美を破壊することですべてを破壊する。誰か大魔術師が社会の幹から 堂々とした琴をつくる必要がある。
○花は星の涙滴である。つまり花は得心であって、世界観なのである。
○宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。
○出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。
○数寄屋は好き家である。そこにはパセイジ(パッサージュ=通過)だけがある。
と深遠なテーマを展開してゆきます。
フラーが人類に語りかけた宇宙船地球号というコンセプトと天心の「花は星の涙滴である。」 は、不思議な共鳴を感じさせますね。
藤森照信さんも宇宙船とカヌーと数寄屋が融合したような茶室を考案しています。 空中まで茶室を釣り上げるという発想が、どこかフラーにも似ていますね。
暮らしのパサージュとしての茶室、季節の去来を楽しむ場所、マイ・パーソナル・ドーム で「ひとり・ミニマム・アトリエ」を楽しみたいものです。