2007年11月8日
先日、友人が家族旅行をするということで、犬の散歩を頼まれました。毎朝、毎夕友人宅まで行きワンちゃんの散歩です。ご存知のように犬は電信柱などにオシッコをします。しかも、少量ずつ歩く道筋にしたがってです。これをマーキングといい犬の縄張りを刻印して行く本能的行動といわれています。
数日間でしたが、彼の刻印作業を観察してみました。まず、臭いをかぐ、そしてオシッコをする・・・しかし、すべてにオシッコをするわけではない。まだ、他の犬がしていないところを探しているようです。自分のマークを発見するとまたする。どうも縄張りは、一度では確定しないようで、間をおく反復が
いいようです。時々、なにかを探し回る。自分のマークではない様子。この場合はオシッコはしない。マークに沿った道を好む。コースを外れると新たなマークをする・・・・できれば元のコースにもどろうとしているみたい。犬の行動をみているとなにやらカーナビを思い出しました。カーナビならぬイヌナビ
にしたがっての散歩です。犬を飼っているひとにとってはお馴染みのことなのでしょうが、わたしはこの 刻印作業に興味をそそられました。人間も同じく刻印をしているように思えたからです。
まさか、オシッコをして歩くわけではありませんが、日常生活は刻印の繰り返しのような気がします。
いつものように朝起きて、洗面朝食、車に乗り、会社に行き、もろもろの作業、家に帰りもろもろの作業・・・そのなかにはいくつかのマーキングと思われる「習慣」があります。癖のようなものです。
ポストを何度も覗く癖、特定の風景の見える場所であくびをする、何かをみたら何かを思い出す、なぜか特定の道を歩きたがる、いつもとデスクのレイアウトが違うと不安になる・・・などなどです。
こういう無意識的行動は、犬の縄張りににていて「わたしの日常」を確認し刻印してゆく作業のように思えるのです。
お寺、特に禅寺では、こういう作業を「作務」と言って修行の基本と考えて意識的作業としているようです。道元禅師は「一寸座れば、一寸の仏」といい只管打座・・・座禅を主眼としました。そして、座禅に望む生活態度を、定めました。日常動作の作法というものです。食事の仕方、掃除の仕方にはじまり、トイレの使い方にいたるまで、こと細かく決められています。特に料理と食べ方は厳しい。すべては、座禅の基本を生活で形にするという考え方で貫かれています。「仏ならばこうする」という起居振る舞いを一貫して、真似て、学んで座禅すれば、誰でも仏になれるという考えです。
これは、化仏(けぶつ)の思想(といわれますが、「仏を学ぶ・・まねぶ・・・まねをする・・・化ける・・ということ」らしい。「仏らしさ」をとことん刻印せよ、ということなのでしょう。
見よう見まねの刻印作業もけっして、単なるまねごとではなく、徹底すれば「らしくなる」のかもしれません。犬の散歩も、刻印作業として大事な習慣・・作務といえるでしょうか?