2012年6月25日
はい、どっと・こむばんは(=^o^=)やまねこでおます。
ドームハウス事業の統括部長のH社長とドームハウスをめぐって語らっていました。
話し合っているうちにふと松岡正剛さんの言う『宇宙的礼節』ということがドーム ハウス事業には必要かな、という直観がありました。
人間は心身ともに健康、バランスが取れていればすべて満足というものでもありません。 エイブラハム・マズローの欲求段階説を待つまでもなく、わたしたち日本人は (韓国・中国もですが)古来「衣食足りて礼節を知る」という言葉でなれ親しんだ人間観です。 生活が成り立ち、健康だとしてもそれだけでは物足りない、やはり社会生活においても認められ 精神的価値を自分なりに実現してゆきたい・・・これをマズローは「自己実現欲求」と呼びました。
確かにある程度の生活水準が整って、自らを振り返り、より高い価値と自己実現欲求を持つのが 人間であることは、ごく当然な姿のように思われます。
しかし、戦後の日本人は衣食足りない生活から衣食足りる生活へと経済成長を背景に豊かさを実現 して来たにも関わらず、むしろ礼節を忘れることのほうが目立ってきました。
つまり自己実現欲求が満たされない人が増えているということです。「近頃の若い者は礼儀がなっとらん」とおじさん的に言っているのではありません。
礼節とは、本来魂の調和をもたらす音楽的人間理解を表しているようです。
孔子が言う礼楽というのは「音楽」が本来の意味です。 魂の和声(ハーモニー)を失いがちだということでしょうか。
これは、社会生活上のアート であると同時に「自己認識」「自己実現」のアートでもあると思うのです。
自己と社会そして宇宙への礼節を松岡正剛氏はかつて「遊星的郷愁」「宇宙的礼節」と呼びました。 それは、かけがえのないこの地球という星の上で生命を営むものたちへの共感・共振が、 人間を宇宙の縮図として受容するという「全体性の回復」を訴えるキーワードでした。
つまり、何かに成る人間ではなく、「何かで在る人間」への視座が問われていたということ でしょうか。
松岡氏はこれを「存在学的」と言い、当時編集長であった雑誌『遊』で、プロブレマティーク (前哨的)なキャンペーンを張りました。 バブルへと奔走する日本人への警鐘的なメッセージだったのだと今になって思います。 1980年代の話なのですが、これは今も有効な視点と思います。
宇宙的礼節・・スピリチュアルな音楽がわたしたちに「豊かさ」を実感させてくれるのでは ないかと思っているのですが、いかがでしょうか?
スピリチュアルの草創期の発端となった松岡正剛氏の処女作『自然学曼荼羅』はそんな惑星的郷愁 と精神世界の豊かさを今も発信している名著です。
「ノヴァーリスは、語ります。物質が光になろうとする努力、物質が光になろうとする努力 物質が光になろうとする努力。三度言ってもまだ足りない」 松岡正剛 「自然学曼荼羅」 松岡正剛著(工作舎 1980年)
この記事も前にもコメントしたような気がします。
物質は光から生まれ光に帰るのですね。
チベットの高僧も「修行の段階が上がると夢の形象が消えて光の塊になる」と言っていた記憶があります。
そうですね。前にもコメント頂きました。
最近、早朝見る夢が気になります。
色彩の印象が薄いのでまだまだ、この世的ですが・・・。