2008年4月24日
心理学好きでなくとも、「自己実現」という言葉は、誰でも聞いたことはあるでしょう。
エイブラハム・マズローの自己実現の心理学・・・欲求段階説から来たものです。
食欲・睡眠欲・性欲などの基本的生存欲求が満たされて初めて、社会的認知の欲求や自己実現の欲求に目覚めるというものです。日本式に言うと『衣食足りて礼節を知る』という故事に相当する見方のようですが、果たしてそうなのだろうか?と最近、疑問を持っています。
現代は『衣食足りてなお礼節を失う』ことが多いからです。
人間は、果たして「衣食足りて礼節を知る」ことができるか?という疑問です。
現在のわたしたちの生活水準は、多くは衣食足りている筈なのですが、礼節や自己実現がかなっているかというといささか疑問です。これを戦前の耐乏生活からいえば「ぜいたく者の甘えと飽食の果ての退廃」と考えるのも、根拠のない話ではありませんが、それだけでは説明がつかない部分も多いのです。
飽食すれば、人間は考えなくていいことまで考えて悩むもの、不自由のないところには自由もない、人間は一事に満足し続けることはできない、などなど「衣食足りてなおメランコリアにとらわれる」のもまた人間なのかもしれません。
かの実存哲学者サルトルも「平和時よりも戦火の中の方が、生存の緊張が充実感をもたすもの」と認めています。だから、戦時体制がいいというわけではありませんが、「日常性」というものが、わたしたちを守ってくれる半面、「生存の充実感と意味感覚」を薄めてしまう作用は確かにあるのでしょう。
日々見慣れた食卓、事務机、通勤電車、仕事仲間、家庭のルーティーンなどなど日常は、わたしたちの意識の安定の骨子をなしているは確かであっても、時としてそれが耐え難い虚無や『生きる意味』の希薄化をもたらしても不思議ではありません。
サルトルなどは、街路のマロニエの木を見て、むき出しにされた「存在の虚無」を垣間見て、嘔吐感に襲われたということらしい。
哲学者のように充分な思考力を持っていないわたしなどでも、日常が時折「のっぺらぼー」になって、こちらを振り返ることに出くわしたりします。
『君が、日常と言ってるものってこんな顔なのかな?』・・・・(^o^;)
そういう一種の妖怪な日常の鮫肌みたいなものを垣間見て、人はノイローゼになったり、うつ病になったりします。
わたしたちが、日々思うほどにわたしたちは、住み慣れた日常を見据えていないのかもしれません。
緑が繁茂する5月が近づいています。
躁うつ病の友人がいますが、彼はまもなくうつ期に入ります。
双極性障害と最近は、言われているようですが、地元の古顔・世話人でもある彼の躁鬱は町内の暦の役割を果たしているようです。桜が散り、緑が茂り始めると「鬱期が来た」とみんな了解します。
家族も町内も彼の躁鬱暦を心得ている様子です。
躁期も鬱期も彼にとっては、いずれも自己実現とも言えるもので、欝は正常だが元気のない日々であり、躁は異常ではあっても元気な日常なのです。
『衣食足りて礼節を知る』・・・・
それぞれの自己実現があっていいのではないかな、と最近思っています。