2010年8月12日
はい、どっとこ・もーにんぐ(=^o^=)やまねこでおます。
先月から内見会、チベット写真展、スイカ祭り、結婚式・コンサートとイベント続きであわただしく 過ごしてきましたので、ここ数日はゆるゆると過ごしています。時として忙しかったり、忙中閑あり というのが、わたしたちの日常です。
ライフ・デザインとは、「どんなふうに暮らしをデザインするか?」ということなのですが 反面「時間をどう過ごすか?」ということでもあります。 わたしたちは、日々の暮らしの張り合いを過ごし方で測るものなのでしょう。 過密なスケジュールと賑やかな環境はビジネス社会につきものですが、一方では閑を持て余して 退屈や憂鬱を抱える都市生活があります。また、田舎では時間がゆっくりと流れ、出来事もまばら なのですが、都会の開放性や流動性さと対称的に閉鎖性や固定性・保守性がつきまといます。
スロー・ライフと言ってもそれは、都市生活から見た「あごがれとしてのスロー・ライフ」なので あって、田舎にとっては都会の喧騒や開放性、あわただしさを逆にあこがれるものなのかもしれま せんね。
人間はないものねだりなところがありますから、田舎暮らしか都会暮らしかという選択は 二者択一の一筋縄ではいかないのかもしれません。 先日お客さんと「過密な都市生活」か「閑散とした田舎暮らし」という対立軸でとらえるのは間違い ではないか?という議論がありました。 それらはもっぱら、生活環境にかかわることなのです。
生活環境がすべてであれば、ことはシンプルですがわたしたちは、意識の流れとしての時間感覚を 持ち合わせています。それぞれがまったく異質な時間を過ごしているのです。 そして、それは「内なるもの」なので、比較としたり、基準化したりできない類のものです。 ゆっくり流れる時間もあわただしく過ぎてゆく時間もひとりひとりの「内なるもの」なのです。 そういう意味では、わたしたちは如何様にも時を過ごす自由とデザインを持っています。 ゆるやかな時間・・・とは。 おそらくそれは、ゆるやかな意識のありかたと深くつながっているのでしょう。 もう一度、私たちの過ごしている時間のあり方を見つめなおしてみるのもいいかもしれません。 そう考えると時計で測られるものだけが時間ではないことに気づくのです。 それは、空間的なもののような気がします。