ゆるめのぬるめがちょうどいい 2

2008年9月5日

はい、こむばんは。(=^o^=) やまねこです。
メンタル・ヘルス・ケアについて再び考えています。
今日はお人よしで、生真面目な人の人間関係についてです。
本来はわたしもそうなのですが、こういうタイプの人は気疲れしやすいのです。いつもこころのどこかで人に答えようとしている、または「いい人だ」と思われようとしているという傾向がありますね。(^o^)

ご参考までにわたしの成育環境をお伝えしましょう。
わたしの父は職人気質で生真面目でしたが、一方で大変なかんしゃく持ちでした。ちょうど菊次郎や寺内貫太郎のような感じでしょうか。
わたしの少年期はそんな生真面目な父を尊敬する反面、いつもかんしゃくの恐怖に怯えていました。いつ何時爆発するかわからない父のかんしゃくに備えていなければならなかったのです。父の怒りへの準備モードと緊張が心の基層にあったような気がします。
そして、母はそんな父に献身的に従順な人でしたから、いきおい母の庇護のもとに父の怒りを買うまいと気づかうようになります。アダルト・チルドレンの機能不全家庭の典型的なケースですね。
長じて成人したときこのような家庭環境に育つとお人よしで生真面目なタイプになります。
そして、内向的な傾向を示し、自分に対して疑いを持つようになります。
心の底に「愛されない不安」を抱えつつも、他人に対してはきわめて融和的でお人好しになりやすいようです。要は「人に嫌われたくない」という願望が強くなり、そのため無意識に他人の期待に答えようとしてしまうようです。
心はいつも準備モードですから、緊張を抱えています。さらに生真面目さが拍車をかけます。こういう人は他人と付き合うのは、困難が伴います。相手の顔色や態度から真意を汲み取り相手の要求や期待に答えるべく、神経ははりつめ、その結果疲労困憊してしまうのです。
わたしもこういうアダルト・チルドレンのひとりなのですが、最近になって努めてこの傾向をゆるめようとスローでゆる系の生き方をしているというわけなのです。
何故ならば、こういう傾向・気質を持った人は歳を経るごとに健康を害することはほぼ確実だからです。
わたしは完全に健康を害するところまで行きましたので、はっきり言えるのですが、他人のことは他人に任せて良いのです。
その人に愛されようが嫌われようがわたしの力の及ぶ領域ではないということに、まず気づくべきかもしれません。
例えばある人にいくらラブ・レターを書いても相手にその気がなければ、まるで無反応なのと同じように、わたしが他人をいくら気づかっても相手にとっては必ずしも好ましいこととは限りませんし、相手の期待に答える必要はないのです。
「人を喜ばせたい、がっかりさせたくない」というのも人情かもしれませんが、人の期待に答えるために自分を害する、抑圧するというのはいいことではないでしょう。
お人好しで他人を気づかい疲れる人・・・そんな人はけっこう多いのかもしれませんが、時折自分をゆるめてみることをオススメします。
人に嫌われても何と言うことはありません。人も自分も変って行きますから、嫌われたままということもないでしょう。そして、いつも「いい人」と思われるのも窮屈なことです。時には気まぐれで自分勝手と思われてもいいような気がします。他人に何も求めない、期待しないように自分に対しても何も求めない期待しないほうが自然体でいられるような気がします。
自分に寛容な心は、人にも寛容になります。自分を責めたり、追い詰めると他人にも厳しく要求するようになり、人間関係は狭く疲れるものになりがちです。
『ゆるめのぬるめがちようどいい。』そして、『少しわがまま、自分勝手』でもかまわないということかな。お人よしは少々の身勝手、わがままがあったほうがいいのかもしれません。
気疲れする人は、ぜひぜひお試しあれ。
やまねこ(=^o^=)でした。

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