神秘体験

パンドラの函  色彩環
パンドラの函  色彩環

2008年10月29日

はい、どっと・こむばんは。やまねこどす。(=^o^=)

『ヌミノースと神秘』
『宗教体験により原始的な感情が沸き立つものである。
概念の把握が不可能で説明し難い 畏怖と魅惑という相反する感情を伴い、身体の内面から特殊な感情が沸き起こるものである 。
絶対他者の存在を感じさせ、人間が本来備えるプリミティブな感覚により直感するものである 。』
これは、宗教学者のルドルフ・オットーが神秘体験を『聖なるもの』の概念として、語るときに用いられる『名付しがたい感情』ということで、多くの宗教の根幹に触れるものとして重視した言葉です。ヌミノースまたは、ヌミノーゼとも呼ばれます。

さてさて、神秘体験とはなんでしょうか。

わたしたちはそれをいつも『日常』と対比して考えます。ありきたりの現実感覚、日々の暮らし、常識当たり前のこと、平凡かつぼんやりとした気分などなど日常を表わす言葉は、様々でしょうが、神秘体験と対極にある言葉ですね。神秘とは、ある意味でそうした日常性が、破れて亀裂を生じ、その亀裂から立ち現れる世界とも言えるものです。ゆえに人は、日常性の凡庸性や退屈を忘れるために神秘を求めるのでしょう。

最近の『オーラの泉』やスピリチュアル・ブームは、そうした背景があるのだろうと思います。現実の閉塞感、失速感が神秘への憧れを一層掻き立てるということなのでしょう。

しかし、最近わたしはそうは思っていないのです。
日常と神秘と言う対立は、表層的なものに過ぎないような気がしています。そもそもそれは、心と体を対立するものと考えるようなものです。あるいは、体は、理解可能で心は謎が多いとも言えるでしょうか。少し考えてみると、それは単純な科学信仰のようにも思えるのです。
物質科学は、自然界について多くのことを解明してきました。そういう意味では、心の問題よりも体の問題のほうが『知識をもって臨める』ような気がするのです。物質に対して心はまだまだ不可知の領域が広がっており、神秘と呼べるのではないか?と考えるのでしょう。
しかし、それはわたしたちがまだまだ物質科学を信頼しているという裏返しの論理に過ぎないのではないでしょうか?
人体の様々な医学的な組成や生化学的なプロセスについては、多くのことが解明され、ゲノムで人間が解読されている時代ではあることは事実なのでしょうし、そうした科学の進歩は目覚しいことは確かです。
しかし、何故ヒトの体が、現在のようなあり方をしているかは、科学では明らかではないのです。
環境適応と進化論と神経系の機能論だけで人体を説明するのは、とても無理があるのではないかな。
明らかに人体は、神秘な形態と言えるものなのです。
その神秘を伝える部分は、科学よりもむしろ芸術の中に語られることの方が多いのでしょう。
そして、人体が神秘なのだとしたら、『身体的現実』を基本としているわたしたちの日常もまた多くの謎を秘めた神秘なものと考えなければなりません。
科学と言う灯りの届かない闇もまたわたしたちの日常の一部なのかもしれませんね。
やまねこ(=^o^=)でした。

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