2014年8月4日
はい、どっと・ちゅーんあっぷ(=^o^=)やまねこ庵でございます。
四十七番八坂寺参道脇のお四国の遍路グッズのお店『衛門三郎の里』を訪ねました。
友人の「金持ちケンカせずおじさん」ことIさんが営むお守りと遍路用品の店です。
因みにIさんを「金持ちけんかせずおじさん」と呼ぶのは彼が金持ちという意味では ありません。お金にかける意欲に勝るアート志向が強烈な人だからです。
金剛杖、輪袈裟、白装束などを買いました。tomokoさんの杖も買いました。
金剛杖はお遍路にとって「弘法大師の分身」ですから大切なものです。 錦の杖カバーと鈴をIさんの奥さんが付けてくれました。 奥さんのお里は徳島とのことで映画『眉山』のエピソードなどお話ししてくれました。 旅の準備も整い、Iさん夫妻に見送られました。
衛門三郎さんをめぐるお遍路の発端は良く知られています。 四国遍路の始まりといわれる衛門三郎伝説です。
『むかし、天長の頃、伊予の国浮穴の郡荏原の郷(現在の松山市浄瑠璃町・荏原)という所に河野衛門三郎という強欲非道な大百姓が住んでいました。 ある日、衛門三郎の家の前に一人の旅のお坊さんがやってきて、托鉢の鈴を鳴らしました。 心地よい昼寝を破られた衛門三郎は、お坊さんを追い返そうとしたのですが、動きません。 腹を立てた衛門三郎は、竹ほうきでお坊さんの椀をたたき落としました。 すると椀は、8つに割れて飛び散ってしまいました。
そんなことがあった翌日から、衛門三郎の8人の子供が次々と死んでしまいます。 さすがの衛門三郎も声を上げて泣きました。 ある夜、衛門三郎の夢枕にあの旅のお坊さんが現れ、「全非を悔いて情け深い人になれ」 と告げます。 夢から覚めた衛門三郎は、自分が強欲であったことを悔い、あの時の旅僧は弘法大師だと気が付きました。
衛門三郎は、弘法大師に許してもらおうと、四国を巡っている大師を捜して四国の道を東からまわったり、西からまわったりして歩きますが、なかなか出会うことができません。 四国を二十数回まわったところで、阿波(徳島県)の第12番札所・焼山寺で倒れてしまいました。 その時、衛門三郎の前に弘法大師が現れ、「これでおまえの罪も消える。最後に何か望みはないか」と、声をかけました。 衛門三郎は「故あって離れている河野一族の世継ぎとして生まれ変わらせてください。 今度こそ人々のために尽くしたいのです」と、言いました。 すると弘法大師は“衛門三郎再来”と書いた小さな石を息を引き取る衛門三郎の手に握らせました。
それから数年後、伊予の国(愛媛県)道後湯築の領主・河野息利に玉のような男の子が生まれました。 ところがその子は幾日経っても左手を握ったままで開きません。 そこで、道後の安養寺の住職に祈願してもらいます。 「きれいな川の水で洗えば開く」とのお告げがあり、そのお告げのとおりにすると、手が開いて中から“衛門三郎再来” と書かれた小石がころがり落ちました。 男の子は、衛門三郎の生まれ変わりだったのです。
その小石は安養寺に納められ、これを機に寺号を「石手寺」に改めたといいます。』
四十七番八坂寺、十二番焼山寺、五十一番石手寺にまつわるお遍路縁起伝説です。 衛門三郎の里さんの店名の由来でもありますね。
やまねこは、カルマ論的な人生の理解というのを深く願っています。因果応報、勧善懲悪など の説話モチーフになることが多いのですが、真相はもっと深いところにあるような気がします。
私たちの人生の何と何がつながっているのか?見えない運命の流れを知ることはできるのか? わしたちに「カルマ=業」はいかに作用するのか。善因善果、悪因悪果はあるにしても何故 人生には苦があるのか?そんなカルマ論的な謎そのものがわたしたちの生の様相であることも 確かなのです。
「お大師さん」とともに歩く同行二人の四国の道・・・遍路。 生・老・病・死という旅は「魂のドライブ」とも言えるものです。