2008年5月18日
某宗教団体の事件が何件か続いた頃からマインド・コントロールと言う言葉は、現代用語の基礎知識のひとつに数えられるようになりました。他人の意志のもとに何らかの心理的トリックに填ることをマインド・コントロールと呼び、そこに身柄の拘束や金品を騙し取るという要素が介在すれば、明らかな「洗 脳」と表現されることも多いようです。世の中に「騙した、騙された」ということは、ひしめきあう時代なのですが、最近話題の「ラスト・フレンズ」のモチーフである「ドメスティック・バイオレンス」などもマインド・コントロールとよく似た点がありますね。
社会病理でもストックホルム症候群といわれたりします。人質にとられた被害者が犯人に同情や愛情を感じてしまうという心理を指しているようです。
こいうった問題には、他者との利害や特殊状況が伴いますから、わたしたちは「洗脳」されまいとどこかで注意を喚起されます。
しかし、セルフ・コントロールについてはほぼ野放しにされていることに多くの人は気づいていません。
セルフ・コントロールは自制心とも訳されますが、これは決して肯定的なものばかりでもないようです。
自制心が効いて、冷静な判断ができるセルフ・コントロールは必要なことですが、ここで問題にしたいのは、自動的なセルフ・コントロールです。
言いたいことがあっても言えない、深慮遠望して自分の意見を控える、自分の言い分はひかえるということが美徳とされる日本だけのこの種のセルフ・コントロールは自然体を抑圧する悪しき慣習と思っています。(*^o^*)
何故ならば、自分を抑圧することは最終的には誰にもプラスはもたらさないからです。
言いたいことがあれば、できる限り表現すればいいのでしょう。
表現することで感情に形を与えて、エネルギーを解放して、自然な安定に戻してくれます。
抑圧すればやがて内圧が高まりストレスが爆発するか、爆発させられない人は病気かトラブルを起して ゆがんだ解決に短絡します。
それは、中心をうしなったセルフ・コントロールとも言えるものです。
サイキック・ディフェンスのテーマでもくり返し取り上げたテーマなのですが、ストレスの連鎖と巻き込まれたり巻き込んだりするというまずい関係性をもたらすのは、自動的なセルフ・コントロールに起因します。普通に言えば「ことなかれ主義・波風の立たない関係」ということなのでしょう。
そこには、独特の人間不信と恐怖が温存され、心の病理を深めます。
マインド・コントロールを警戒する知恵があるのなら、わたしたちはまず、不自然な自己抑圧と言うセルフ・コントロールから自由になることにも注意を向けたいものですね。
人に嫌われてもほとんど実害はありませんが、わたしたちが人に嫌われまいとしてすることの多くは、礼儀を除いてはほぼ有害なことばかりなのです。
つまり、トラブルの多くは他人よりも自分から引き寄せることのほうが圧倒的に多いという単純な事実に気づいている人は、まだまだ少ないようです。
さてさて、やまねこ、やまねこ。
これは、わたしの脳内メーカーなのですが、けっこう笑えますよね。
大脳新皮質においては半分は「お休み」で半分は「愛」なのですが、古い皮質においては「悪と秘密がいっぱい」ですね。これも、自然体といえなくもないかもしれませんね。(笑)